1995年3月20日、東京・墨田区にある墨東病院。朝のカンファランス中にその第一報は飛び込んできたという。
「地下鉄で爆発らしきものが起きた、多数傷病者」
消防からの患者の受け入れ要請に緊張が走った。
「全員受け入れる」
当時、救命救急センターで働いていた堤晴彦医師は、悩むことなく即座に決断した。

東京の地下鉄日比谷線、丸ノ内線、千代田線の計5車両で「オウム真理教」の信者らが猛毒の神経ガス「サリン」を散布し、乗客や駅員ら14人が死亡し、約6300人が負傷した地下鉄サリン事件。
激しい嘔吐、痙攣、呼吸困難に陥る患者が多数搬送されるなか、適切な治療薬を投与する必要があるものの、原因が特定できない…困難な状況で被害者たちを救ったのは、経験豊富な救命医が下した“決断”と、病院に解毒薬を届けるために奔走した医薬品卸業者社員の“機転”だった。
これまでに誰も経験したことがない1日が始まった。
手足は震え痙攣を起こし…「命をつながなければ」
ほどなくして患者が救急車で搬送されてきた。手足は震え痙攣をおこし、口からは泡を吹き意識もなかった。今にも心臓が止まりそうな状況だった。
「とにかく命をつながなければ…」
その時、心臓が一瞬止まった。すぐに心肺蘇生を開始、気管から管を入れて人工呼吸器につなぎ、なんとかその場をしのいだという。

その後も運ばれてくる患者は後を絶たない。堤医師らはその多くの患者を診察していて、共通するある症状に気づいたという。
「みんな瞳孔が小さくなっている」
縮瞳と呼ばれる目の異常だった。さらに多くの患者が「視野が暗い」と同じ症状を訴えていた。
「解毒剤を用意しておけ」支店長の機転
「今大変なことになっている、地下鉄で何かあったみたいだ」
医薬品卸・スズケンの城東支店で地下鉄サリン事件を報じるテレビを見て支店長がつぶやいた。インタビュー映像で目の不調を訴える被害者の声が流れると1人の社員にこう指示した。
「解毒剤のPAMを用意しておけ!」

指示を受けたのは当時、墨東病院を担当していた阪本正夫氏。しかし、PAMは農薬中毒などに使われることが多く、都心にはほとんど在庫がない薬。見つかったのは埼玉県内にあるメーカーの倉庫だった。
しかし、通勤時間帯の高速道路は渋滞が発生して時間がかかる。そこで倉庫に比較的近い支店の支店長に受け取りを依頼した。
「PAMで行こう」医師が下した大きな決断
その頃、救命救急センターの堤医師は大きな決断に迫られていた。
硫酸アトロピンの投与で容体を安定させていたものの、あくまで対症療法で一時的な効果しかない。患者に共通していたのは、瞳孔が小さくなる「縮瞳」の症状。
堤医師はこれまでの救命救急の現場経験から「脳卒中」か「麻薬」か「有機リン中毒」のいずれかだと考えていた。多くの患者が一斉に「脳卒中」になるわけがない、「麻薬」もみんなが同時に摂取するわけがない、そうすると残るは「有機リン中毒」しかない。この「有機リン中毒」に効く解毒剤「PAM」の投与を決めた。

堤医師は当時の状況について、「何か使わないと患者さんが亡くなるという切迫感がものすごくありましたよ。硫酸アトロピンだけでこのまま対応していたらどんどん悪化していくという状況の中で、そのままみるか、あるいは危険性があるかもしれないけどPAMという解毒剤を使うか」と振り返った。
そして、決断したという。
「目の前に死にそうな患者さんがいるんですから。『PAMで行こう!』と指示しました」
「有機リン中毒」とは治療法が異なる「アセトニトリル」という情報もある中で決断した「PAM」の投与。しかし、ここで大きな問題が発覚する。病院に「PAM」の在庫はほとんどなかったのだ。
「持ってきたぞ!」解毒剤をパトカーで病院へ
「至急PAMを持ってきてくれ」
病院から要請を受けた医薬品卸・スズケン城東支店。目の不調を訴える被害者のインタビュー映像を見てすでに薬を手配して動いていた。墨東病院担当だった阪本氏はPAMの受け取りをお願いした支店長が到着するのを病院前で待っていた。その時阪本氏の目の前に現れたのは、パトカーだった。

「パトカーが目の前に止まって何だろう?と思ったら『PAMもってきたぞ」と。びっくりするぐらい早かったですよ。」
とにかく早く病院へ治療薬を届けなければならない。支店長は警察に頼み込み、パトカーであるだけの解毒剤「PAM」を運んできたという。
PAM投与で劇的に症状改善「これでなんとかなる!」
PAMを投与した患者は劇的に症状が改善した。血圧や脈拍、それから震えも落ち着き「PAMが効いた」と堤医師は確信を持った。最も重症だった患者も一命を取り留めた。
「PAMが効いたと分かってうれしかったですよ。これでなんとかなるんじゃないかって」
原因がサリンだと分かったのはPAMを投与した後のことだった。
「1人でも多くの命を救いたい」みんなが同じ思いで動いたあの日
堤医師は地下鉄サリン事件が起きた1995年3月20日をこう振り返った。
「私たちは1人でも多くの命を救いたい、そんな思いでした。さらに1人でも多くの患者さんを受け入れたい、そんな気持ちだったと思います。そういう気持ちはほかの病院の先生達も同じだったんじゃないか」
「PAM」を病院へ届けたスズケン(当時)の阪本氏は、「あのときはみんなが一人でも多くの患者さんを救おうと思って一生懸命動いているのがすごく記憶に残っています。有事の時は皆さんが協力して一つの方向に動くんだなとあの時感じました」と振り返った。
地下鉄職員、消防、警察、医療関係者をはじめ、あの日救命活動に関わった全ての人が同じ思いで必死に闘った1日だった。
(敬称略)