17日、神戸市で行われた追悼のつどいで遺族代表として思いを語った男性がいる。

大切な人を失い、残された家族は共に生きてきた。

残された3人が30年かけてつないだ「家族」の時間だ。

■【動画で見る】最愛の母と弟を亡くし…突然始まった「父子3人の暮らし」歩んだ30年

■遺族代表の男性 残された家族3人で助け合い生きてきた30年

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17日、神戸市で行われた追悼のつどいで、遺族代表を務めた長谷川元気さん。

震災で母と弟を亡くした後、残された家族3人で、助け合いながら生きてきた。

(Q.どういう気持ちできょう迎えた?)
長谷川元気さん:母と亡くなった弟には、しっかりその2人が生きた証を、伝えられたらなということと、父と弟・陽平には、今までの感謝の気持ちを伝えられたらいいなと思っています。

追悼のつどいで話す 長谷川元気さん:父は震災後に建てた自宅の一室を教室にし、学習塾を経営しながら、そのかたわらで料理や洗濯などの家事をして私と弟を育ててくれました。そのおかげで今の私があります。本当に感謝しています。

年子の弟の陽平は好きな漫画のことを語り合ったり、カードゲームをして遊んだりできる、唯一無二の親友のような存在です。陽平のおかげで、震災後も毎日を楽しく過ごせました。ありがとう。

去年、家族3人がともに暮らしてきた大切な場所が、役目を終えた。

震災から30年、“想いをつないで”歩んできた人生の記録。

■家族3人で共に支えあいながら暮らした家から引っ越し

2024年6月、長谷川博也さん(73)は、引っ越し作業に追われていた。

長谷川博也さん:そのままにして行っとうからな、子供らが。あんまり近寄ったら、くしゃみするで。

神戸市東灘区にあるこの家で30年間、暮らしてきた。

(Q.ここは子ども部屋?)
長谷川博也さん:2階で、2人で小さいときは寝とったんやけど…。小学5年、6年ぐらいになったら、2人で。中学ぐらいになると別々の部屋。

この家を建てたのは、1995年。

阪神・淡路大震災で妻・規子さんと三男・翔人さんを亡くした後のことだ。

長男の元気さんと次男の陽平さん。
残された息子2人と、共に支えあいながら生きてきた日々だった。

長谷川博也さん:食べさせておけば何とかなるやろっていうのが一番。しつけはすでに出来ていたから、僕はとにかく飯食わして、大きくしたらええかな、と。

■突然始まった男3人での暮らし「お父さんがいるから」

元々、塾の先生をしていた長谷川さんは家の一階を教室にした。

「子どもたちと長い時間を過ごせるように」という思いからだ。

1999年のある日の晩ごはん。メニューは焼きそばだった。

長谷川博也さん:陽平にええ感じのとこ食われるぞ。
長男・元気さん:うわー。

突然始まった、男3人での暮らしだった。

長谷川博也さん:むちゃくちゃ食うようになったな、陽平は。

長男・元気さん(当時13歳):日常では(お母さんのこと)そんな思い出さへんけど、夜寝る前とか。地震前の家で、地震なんか無かったんかな、みたいな。
起きたら、知らんとこにいるみたいな。夢見た時はかなり涙ボロボロ流したりとか。いまはなんか知らんけど、ないわ。

(Q.悔しかったこととかない?)
長男・元気さん:お父さんがいるから、それはあんまりない。

■母と弟の遺骨はずっと家族のそばに「見とってほしい」

長谷川さんが子どもたちに弱音を言ったり、苦労を漏らしたりすることは一度もなかった。

亡くなった2人の遺骨は、ずっと家族のそばにあった。

長谷川博也さん(当時48歳):子どもが大きくなるまで、18歳ぐらいになるまで、置いとってもいいかなって。もうちょっと子どもらが大きくなるまで、見とってほしいなっていうね。

■子どもたちに自らの経験を伝えることが使命

2014年になっても家には父子の姿が。
長男・元気さんはまだ暗いうちから母と弟の遺骨に手を合わせていた。

長谷川博也さん(当時63歳):元気、いつもの時間に出ていくやろ。
長谷川元気さん(当時28歳):うん。

このときも父・博也さんは朝食を用意していた。

長谷川元気さん:いってきます。
長谷川博也さん:見送りません。見おくっとたら過保護になるからな。

大人になった元気さんは、小学校の先生になった。

毎年、子どもたちに自らの経験を伝えている。

授業で語る 長男・元気さん:ある日突然、お母さんと翔人を亡くしました。二度と会えなくなりました。その時に初めて気が付きました。いてくれることは当たり前じゃないんやな。なんでもっとお母さん大事にせんかったんやろ。なんでもっと翔人のこと大切にせんかったんやろ。

震災の経験を伝え、次の災害に備える力になる。

それが自分の使命だと考えてきた。

■それぞれの震災に対する向き合い方

次男・陽平さん(当時27歳):写真の入ったデザインで上がってきてて、今から原稿を書いていく。

元気さんよりも先に、実家を出た陽平さん。

震災のことについて、気持ちを語ることはほとんどなかった。

次男・陽平さん:うれしかったこととか、よろこびみたいなことを、人と分け合うのはいいことだと思うけど、悲しいことは人と分け合っても悲しさは減らないし。自分に合う悲しさっていうと変な言葉ですけど。徐々に徐々に消化していく。それとの向き合い方は自分で探すしかないんではないかな、という気がしている。

陽平さんは大学生のころから、小説を書いている。

震災から20年以上がたったとき、自分の経験を題材にした作品を書いたこともあった。

陽平さんの小説より:だれかに語らなければ、そこにあったという事実すら残せないまま消えていく言葉。そういうよわい言葉を、ここに書いておきたいと思った。もしかすると、それが母と弟に、いま、できることなのかもしれない。

それぞれの、震災に対する向き合い方がある。

■20年ぶりに聞く母の声

ある日、父・博也さんは息子2人にあるビデオを見せようとしていた。

長谷川博也さん:出てきたビデオ見る?ちょこっとだけお父さん見て、しんどかったから、お前らには黙っとったんやけどな。

小さいころの兄弟3人全員が映っていた。

中には、翔人くんの歩き始めの映像もあった。

母・規子さん:よいよいよい。

三男の翔人くんをあやす母・規子さんの姿も。

母の声を聞いたのは、20年ぶりだった。

■ひとりで住むには広すぎる家 手放すことを決意

2024年、長谷川さんは長年過ごしてきた家を離れると決めた。

息子2人は成長し、新しい家族と共に別の場所で暮らし始め、ひとりで住むには広すぎる家になっていた。

(Q.さみしかったりしない?)
長谷川博也さん:しない。さみしがったりなんかしてる暇がない。

この家で積み上げたたくさんの思い出を、少しずつ片づけていく。

次男・陽平さん(37):親父の話を聞いた当初っていうのは、それが親父の考えなのであれば別にいいんじゃないって。そんなに抵抗は正直なかったんです。

そんなに言語化できてないんですけど。最後、全部手続きを親父が進めて、不動産会社で買主と直接顔を合わせて最後手続きする時、何かあんまりええ気はしなかったっていうのが、何かそこが自分としてちょっと意外っていう。(自分に対して)そうなんや、みたいな。

■「家族3人やけど幸せ」父子の思い出

長谷川博也さん:向こうから降ろして、仏壇。そんなに重くはないけど。

母・規子さんと弟・翔人さんの仏壇は、長男・元気さんが引き継ぐ。

長男・元気さん(38):売却するってなった時は、帰る場所がなくなってしまうような気がして、さみしいなっていう思いがあったんですけど。

(Q.家での一番の思い出は?)
長谷川元気さん:寝るときは2階の畳の和室で、僕と陽平が寝て、リビングの方でお父さん布団敷いて寝てた。その時が一番、家族がそろっているような、そんな感じがして。

涙をぬぐい、元気さんは語りました。

長谷川元気さん:家族3人やけど幸せやったなって。

■共に生きた30年 子どもの成長と木の成長を重ね合わせ 時の流れをかみしめる

家の中から家具を運び出し、引っ越し作業もひと段落だ。

長谷川博也さん:疲れました、ほんまに。この状態になってやっと落ち着くというか。もうゴール直前やからね。安心しているところです。

30年を振り返ってじゃなく、普通に、病気せんと過ごせてきた。良かったなと思うけどね。ひとつの節目で、決してゴールではないからね。

長谷川博也さん:庭にハナミズキがある、その隣にユズの木がある。震災の時に近くのご夫婦がくれて、それが今…すごく大きくなってる。

長谷川博也さん:子どもの成長と木の成長が…ごめん。

言葉に詰まりながら、長谷川さんは胸の内を語った。

長谷川博也さん:家はもう年取って、自分と一緒かな。

震災で大切な人を亡くしてから始まった、3人の暮らし。

共に生きた30年は、たしかに、幸せな時間だった。 

(関西テレビ「newsランナー」2025年1月17日放送)

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