高知県内で約700人が犠牲となった昭和南海地震から、12月21日で78年。当時の被災状況を詳しく記録した資料が新たに発見された。内容を知った上で防災活動に生かしてほしいと2025年3月から展示される。
戦災に追い打ちをかけた昭和南海地震
「『ヅー』といふ地震特有な地響」
「其所彼所(そこかしこ)の家屋が倒壊する」
「只事(ただごと)ならぬ情景に一変してしまった」
これらは新たに発見された「三災記」の一節。

昭和南海地震は終戦翌年の混乱期、1946年12月21日午前4時過ぎに発生。マグニチュード8.0、高知県沿岸は4mから6mの津波が押し寄せ、死者・行方不明者は679人に上った。
当時の被災状況などを詳しく記した公文書はほとんど残っておらず、昭和南海地震は分からないところが多い。

このほど、高知城歴史博物館の学芸員・水松啓太さん(26)が、地震に関する展示を企画する中で県民に情報提供を求めたところ、2024年7月に「三災記」という資料が発見された。
「三災記」は、高知市の初代教育長・伊藤盛兄(もりえ)さんが、当時住んでいた下知地区で自らが体験した南海地震を見たままに書き残したもの。

伊藤さんにとっての“三災”とは「長男の戦死」「自宅を全焼させた空襲」そして追い打ちをかけるように襲ってきた「地震」を意味する。伊藤さんは地震から約半月後に避難先でペンを握り、この「三災記」を執筆したという。
地震後の津波で逃げ遅れ…未来へ警告
1946年12月21日午前4時19分、下知地区の自宅で強い揺れに襲われた伊藤さんは、当時のことを次のように表現した。

「『ヅー』といふ地震特有な地響と共に引き切りなしに微動を繰返し伝へて来る」「物が砕ける、廂(ひさし)が落ちる、其所彼所の家屋が倒壊する、電灯が消へる、只事ならぬ情景に一変してしまった」
浸水の様子については「浸水は早や膝を没する 全く水地獄」と深刻な被害を伝えている。

手記の最後には「未来の震禍に参考すべき事柄」を9つ記している。
その中の1つに「『激震後弁当を用意してから避難して間に合ふ』という当時の古老の言い伝えを過信したため、逃げ遅れ溺死した人が少なくなかった」といい、「地震ー津浪の直結であった」と警告する。
リアルな体験談から防災へ生かして
「三災記」は高知市の被害を伝える詳細な手記としては初めての発見。
水松さんによると「当時の昭和南海地震の高知市の被害記録は、行政とか統計的な数字の資料が中心。体験者が震災からほどなくして書いた被害の実態を伝える手記として、非常に貴重なもの」だという。

高知城歴史博物館では、高知の地震災害史を詳しく調べ2025年3月から企画展を開くことにしていて、この「三災記」も展示される予定だ。
「昭和南海地震を体験された方のリアルな体験談として、内容を皆さんに知っていただいた上で、自らの防災活動に生かしてもらえたら」と水松さんは語った。

「三災記」は全104ページにわたり、ドキュメンタリー小説のような感覚で読むことができるそう。
未来への教訓として言葉を残した人の気持ちを受け止めつつも、現代にそれが通用するのか見極めていくことが重要だ。
(高知さんさんテレビ)