ニューヨーク在住のまま、1991年に監督デビューしたアン・リーさんは、アメリカの多様性を目の当たりにしながら創作し続けた。その環境で生活してきた人だからこそ描ける優しいまなざしの作品の一つが『ブロークバック・マウンテン』である。

『ブロークバック・マウンテン』(2005年) Photo: Kimberly French/Focus FeaturesCourtesy of River Road EntertainmentCourtesy of Universal Studios Licensing, LLC
『ブロークバック・マウンテン』(2005年) Photo: Kimberly French/Focus Features
Courtesy of River Road Entertainment
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アメリカ中西部を主な舞台として、1963年から20年間にわたる、引かれ合う2人の男性の姿を描いた『ブロークバック・マウンテン』。公開当初は「ゲイ・カウボーイ・ムービー」と評され、特にアメリカでは成功するような映画とは捉えられていなかった。

ところが、アメリカ国内外で記録的な評価と興行収入をもたらし、世界三大映画祭の一つ、ヴェネツィア国際映画祭では最高賞の金獅子賞を、アカデミー賞では監督賞を射止めた。

父親からの無言の賛辞

その成功の理由をリーさんはこう語る。

リーさん
『ブロークバック・マウンテン』は、ジャンルを超えた、純粋に美しい愛の物語です。カウボーイや詩的要素、西部劇といった枠を超え、深い感動を与えてくれる作品だと感じています。この映画の始まりは、前作『ハルク』(2003年)と『グリーン・デスティニー』(2000年)の製作で疲れ果てていた時期でした。それにも関わらず、映画の神様が私に再び愛をもって映画を作る機会を与えてくれたのです。

『ブロークバック・マウンテン』(2005年) 演出中のリーさん(右) Photo: Kimberly French/Focus Features Courtesy of River Road EntertainmentCourtesy of Universal Studios Licensing, LLC
『ブロークバック・マウンテン』(2005年) 演出中のリーさん(右) Photo: Kimberly French/Focus Features Courtesy of River Road Entertainment
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リーさん
撮影期間は10週間で、まるでそよ風のように過ぎ去りました。ただただ美しいラブストーリーで、新鮮で成熟していて、西洋社会で長らく抑圧されていたゲイの存在を照らし出しています。

中国の武侠映画を世界に紹介した時と同じように、この映画もまた、映画が醸し出す文化的強みを世界に伝えたのではないでしょうか。

――お父さまは『ブロークバック・マウンテン』の製作が決まる前に亡くなられました。話題作を次々に送り出す監督として、あなたのことをどう評価していましたか?

リーさん
私の父の世代の中では、父親は息子にとって風格の象徴でした。その世代からの最高の賛辞は、叱るべきことを見つけずに静かに見守ることです。父は私の映画について何も言いませんでした。それは私のことをとても誇りに思っている証拠だと思います。

父は、みんなが楽しむ映画が好きでしたが、その世代の中国人はエンターテイナーや映画監督というものに特別な感情は持っていないのです。映画好きの私を見て、父は映画で博士号を取って学者の道を進むことを望んでいたのかもしれません。でも結局のところ、父が何も言わないということは、彼なりの最大の褒め言葉だと思っています。

両親と 12歳の頃 台湾・台南 Courtesy of Ang Lee
両親と 12歳の頃 台湾・台南 Courtesy of Ang Lee

リーさん
エンターテイナーや映画監督は普通の生活をしていないと父の世代は思っています。実際のところ、長い間、私は退屈な普通の生活を送っていました。それでいいと思っていました。一方で、どれだけ多くのアジアの若者たちが私のところに来て、感謝の気持ちを表してくれたか分かりません。

「あなたのおかげで両親が映画の勉強を許してくれました。あなたは間違ったことをしていないからです」と言われます。ちょっと重荷になるような言葉ですね。映画製作において、時に過剰な表現で下品になることもありますが、上品に振る舞うことは父に認めてもらう一つの方法でした。父にもう聞くことはできませんが、この映画、『ブロークバック・マウンテン』には自信を持っています。

『ブロークバック・マウンテン』(2005年) Photo: Kimberly French/Focus FeaturesCourtesy of River Road EntertainmentCourtesy of Universal Studios Licensing, LLC
『ブロークバック・マウンテン』(2005年) Photo: Kimberly French/Focus Features
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映画に必要なもの:うまくいかない人間関係と俳優

――あなたの作品は、異なる立場の人間の心理を描いているように見えますが、常に探求しているテーマはありますか?

リーさん
私は劇作家として、うまくいかない人間関係に興味があります。順風満帆の人生になんて興味は持てません。人間関係で衝突したり、心の中に葛藤が湧き上がると、人生は突然おもしろく転がり始めます。紆余曲折の人生や隠し事は興味の対象です。

人生は嘘で覆われています。しかし、その奥底には真実があり、時に隠そうとします。その深い部分に光を当てて真実に触れようとする。それが人間の関心事です。

人間関係には2つの要素があります。一つは、自由でひとりになりたいという欲求。もう一つは、お互いに離れられないという束縛です。この二分性から終わりのないドラマが生まれるのです。私たちは自由を求めつつも、お互いに必要なのです。

『恋人たちの食卓』(1994年) 演出中のリーさん(左) Courtesy of Central Motion Picture Corporation
『恋人たちの食卓』(1994年) 演出中のリーさん(左) Courtesy of Central Motion Picture Corporation

――ストーリー、撮影、演技など、映画で最も重要なものは何ですか?これらすべての要素のバランスはどう取りますか?

リーさん
絶対に俳優です。あらゆる要素が俳優のために機能すると信じています。映画は登場人物の心の中にあるものをすべて視覚化すべきというのが私の哲学です。それは俳優が表現します。ですから、俳優が最も重要なものです。

クルー全員が俳優のために尽力しなくてはなりません。私はカメラマンであろうが、振付師であろうが、美術スタッフであろうが、現場を離れてもドラマの話をしてくれる人たちと働くことを好みます。

――あなたの作品の出演俳優は、異口同音に「自分の監督スタイルを押しつけない」と話しています。俳優には即興を望みますか、それとも台本通りに演じてもらいますか?

リー
俳優に幅広い表現の機会を与えたいと考えています。リハーサル中はキャラクターや俳優同士の化学反応を磨き上げます。撮影中は、料理と同じように、レンジの中の食材が良いものであることを確認し、指示を出しながらも、テイクごとの微調整はあります。

『ブロークバック・マウンテン』(2005年) ジェイク・ギレンホール(左)とアン・ハサウェイPhoto: Kimberly French/Focus Features Courtesy of River Road EntertainmentCourtesy of Universal Studios Licensing, LLC
『ブロークバック・マウンテン』(2005年) ジェイク・ギレンホール(左)とアン・ハサウェイ
Photo: Kimberly French/Focus Features Courtesy of River Road Entertainment
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リーさん
私は俳優に様々な演出をすることが好きです。それが俳優にとって意味をなさなくても、混乱しても構いません。私は“可能性”を収集しているのです。もちろん撮影時間は限られているので、時間内にできる限り多く試してみます。

俳優は私の演出方法を分かった上で、テイクごとに新しい演技をしてくれます。私は編集の際に、その中からベストの演技を選び取るのです。俳優は基本的なことを理解して準備しておくことが重要で、その上で即興をしてくれればいいと思っています。

East Meets West 芸術の“仲介者”として目指すもの

台湾を取り巻く環境が世界の耳目を集める中、若い世代に伝えたいメッセージを聞いてみた。

リーさん
私は、映画はどんな政治的な問題よりもずっと長く続くと信じています。みんなが平和に暮らし、映画を通じて体験を分かち合うことを心から願っています。

ニューヨーク大学ティッシュ芸術学部祭で 2024年4月 © HollensheadCourtesy of NYU Photo Bureau
ニューヨーク大学ティッシュ芸術学部祭で 2024年4月 © Hollenshead
Courtesy of NYU Photo Bureau

東西文化のマリアージュ、そして、それを通じた世界の平和。文化芸術の果たす役割は、東西の調和を図る“仲介者”にかかっていると言っても過言ではない。帝政ロシアの文豪トルストイは言う。

芸術によって、同じ時代の人たちが味わった気持ちも、数千年前に他の人たちが通ってきた気持ちも伝わるようになる。
芸術は、いま生きている私たちに、あらゆる人の気持ちを味わえるようにする。
そこに芸術の務めがある。

時空を超えて伝わる芸術の意義を、古希を迎えたばかりのリーさんは映画への情熱と共にどう語ってくれるだろうか。 

「第35回高松宮殿下記念世界文化賞」の授賞式は11月19日、東京都内で開催される。

(サムネイル:ニューヨークの事務所にて 2024年5月 © 日本美術協会/産経新聞)

リーさんと共に世界文化賞を受賞したソフィ・カルさん(絵画部門)、ドリス・サルセドさん(彫刻部門)、坂茂さん(建築部門)、マリア・ジョアン・ピレシュさん(音楽部門)の皆さん5人をフィーチャーした特別番組が2つ放送される。

「世界文化賞まもなく授賞式SP」
11月19日 14:45-15:45 フジテレビ系列(一部の地域をのぞく)
TVer・FODで見逃し配信あり

「第35回高松宮殿下記念世界文化賞」
12月13日 24:55-25:55 フジテレビ(関東ローカル)
12月14日 10:00-11:00 BSフジ

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中本 尚志
中本 尚志

フジテレビ国際局国際渉外担当。
ワイドショーのディレクター時代にエンタメネタと同時にベルリンの壁崩壊を取材。
ロサンゼルス駐在員時代には一時期、報道特派員も兼務。
国内外の芸術文化ジャーナリズムの一端を見つつ、国際エミー賞など世界のテレビ・メディア賞の審査員を毎年務める。
映画は小津安二郎、音楽はビートルズから学び、この二つの記号と共に21世紀文化を見続けたい。
広島出身。