パリオリンピックの17日間の熱戦が幕を閉じた。日本代表選手は帰国後、地元でメダル獲得を報告したり、競技の魅力を伝えたりと大会前とは違った忙しい毎日が始まる。宮城県石巻市で生まれた元日本代表セッターの藤井直伸さんも3 年前、同じ夢を見ていた。パリでの活躍と地元でバレーを広げたいという夢。藤井さんは去年、31歳という若さでこの世を去った。藤井さんが亡くなって1年あまり、52年ぶりのメダルを目指し激戦を繰り広げたバレーボール男子日本代表のベンチには藤井さんの写真が置かれた。そして、ふるさと石巻では藤井さんが描いていたもう一つの夢が、思いを受け継いだ仲間によって実現していた。
この記事の画像(10枚)果たせなかった“恩返し”
石巻市総合体育館の入口には、バレーボール男子日本代表として活躍した藤井直伸さんのスーツが展示されている。東京オリンピックの開会式で着たものだ。家に置いておくよりは多くの人に見てもらいたいと藤井さんの両親が市に寄贈した。この体育館で2024年8月1日、小中学生約60人が参加した「心は一つプロジェクト」バレーボール教室が開かれた。
藤井さんが胃がんであることを公表した後、SNSのハッシュタグで広がった「#心はひとつ」にちなんだものだ。実行委員長で、藤井さんの母校・古川工業バレー部OBの門脇敏弘さんは、藤井さんが果たせなかった「地元でバレー教室を開く」という夢を実現しようと開催を呼びかけたという。会場には藤井さんが所属していたチーム、東レアローズ静岡の選手たちの姿もあった。
逆境をばねに歩んだバレー人生
日本代表セッターにまで上り詰めた藤井さんのバレー人生は順風満帆とは言い難い。
競技を始めたのは石巻市雄勝町にあった旧大須中学校。藤井さんが3年生の時は全校生徒わずか27人。運動部はバレー部しかなかったが、学校には体育館もなかった。朝は校庭で練習、放課後は近くの小学校の体育館を借りて夜遅くまで練習を重ねた。努力の甲斐あって、セッターとして宮城県選抜に選ばれると高校バレーの強豪・古川工業のスカウトを受けた。
しかし、入学直後に膝を骨折する大けがをしてしまう。当時の監督の佐々木隆義さんは、病院のベッドで一人トスの練習をしていた藤井さんを覚えているという。不遇にあっても努力を続けたことで「ボールを操るハンドリング技術の向上につながった」と当時を振り返る。
藤井さんが順天堂大学に通っていた2011年3月、東日本大震災が発生。津波で実家が全壊し、漁業関係の仕事に就いていた父は職を失った。藤井さんはバレーをやめ家族を支えることも考えたというが、大学は授業料を免除し、古川工業のOBも復旧作業を手伝うなど、バレーを続けられるよう支援した。藤井さんはこのときを振り返り「体育館でバレーができるありがたさを感じ、バレーが好きだと改めて思った。被災地の一員として頑張っていかなければと思った」と語っている。
代表を変えた 努力のBクイック
大学卒業後の2014年、Vリーグ東レアローズに入団。ミドルブロッカーの李博選手と出会い、Bクイック(2m以上離れたアタッカーに速く低いトスを上げる速攻)習得に力を注いだ。李選手によれば、藤井さんも当時はBクイックが苦手で「お互い苦手なところから頑張ってきた」という。毎日1時間以上、居残りで練習を重ね、チームの大きな武器となるBクイックが完成。磨き上げた2人のBクイックは “世界一美しい”とも評された。2017年、チームはVリーグを制覇。その年に2人は揃って日本代表入りを果たした。
ミドルブロッカーの速攻を多用する藤井さんのトスワークは、高さで劣る日本バレーが世界で勝つための武器となっていく。同じ宮城県の名取市出身で、パリオリンピック日本代表の小野寺太志選手は「今の男子代表のスタートは藤井さんだったと思う。藤井さんがセッターで活躍してくれたおかげで僕らミドルブロッカーへの期待が高まった」と藤井さんの功績を話す。
パリへ 夢は続くはずだった…
相棒の李博選手とともに2021年の東京五輪に出場した藤井さん。代名詞となったBクイックで男子29年ぶりのベスト8入りに貢献した。大会後には石巻市を訪問し、パリオリンピックへの意欲を語るとともに、古里への恩返しのため、バレー教室を開きたいと恩師の佐々木さんなどに約束していたという。
その矢先、藤井さんは右目に不調を感じるようになる。診断により、ステージ4の胃がんが判明。目の不調は転移が進んだ結果だった。
藤井さんは2022年2月、チームに病状を報告。「主将としてチームで優勝するのが夢だった。どんな状態でも一緒に行くのでファイナルに連れて行ってください」と涙をこらえながら話し、その後も病床からチームを鼓舞するメッセージを送り続けた。
そして2023年3月10日、藤井直伸さんは31歳でこの世を去った。
受け継がれる遺志
藤井さんの死から約1年5カ月。パリオリンピックが開催されていた8月1日、SVリーグ東レアローズ静岡(2024年よりリーグ名称など変更)の李博選手は、阿部裕太新監督、キャプテンの重藤トビアス赳選手、宮城県気仙沼市出身の小野寺瑛輝選手らとともに、藤井さんの古里にある石巻市総合体育館を訪れた。藤井さんが果たせなかったバレー教室の恩返しを実現するためだ。
李選手は「うまくなりたい気持ちとそれに比例した練習量が必要。1日1日を大事に頑張ってほしい」と子供たちに語りかけ、今を大切に生き、頑張ることの大切さを伝えた。それは藤井さんが歩んできた道でもある。
バレー未経験の小学生も、上達を目指す中学生も、目を輝かせて指導を受けた。宮城県は全国でも知られる高校バレーの有力校が複数あるが、国内トップのSVリーグチームはなく、プロ選手から指導を受けられる機会は多くない。会場を訪れた藤井さんの父、俊光さんは「いろいろな人の関わりで実現できたことがうれしい。子どもたちには自分の夢を持って実現してほしい」と目を細めて教室を見守った。
諦めずに努力する姿を見てきた人たちがつなげた、藤井さんの夢。パリオリンピックのコートでも、古里の体育館でも、一番大きく響いていたのは藤井さんの声かもしれない。