ことしも北海道でヒグマの出没が止まらない。通報は1700件を超え、死傷者が10人を数えた去年に次ぐペースだ。
ヒグマは大きな個体で体長3メートル近くあり、駆除のためにはライフルで急所を撃ち抜かなければならない。ハンターは命がけで対峙するが、駆除の報酬をめぐりトラブルが顕在化するなど混迷を深めている。
一方で、クマに頭蓋骨を砕かれ、左目もかじり取られても、「箱わな師」として捕獲を続ける“名士”もいる。
北海道のハンターを取り巻く状況を追い、クマとの共生の道を探る現場に迫った。
相手は“アメリカ軍の特殊部隊”クラス なのに日当8500円
この記事の画像(12枚)札幌から北東に車で1時間半。
人口4700人の米どころ、奈井江町で騒動は起きた。
地元猟友会は今年5月、ヒグマが出没したとしても出動を辞退すると、町に申し出た。全国でも異例の事態。理由は町が示した日当の低さだった。
「怒りじゃない。あきれてものが言えない。ヒグマ駆除はアメリカ軍の特殊部隊と森で戦うようなもの。突然襲われて、顔をかじられたハンターを何人も知っている」
奈井江町の猟友会で会長を務める山岸辰人さんは、憤りを隠せない
町が提示した額は日当8500円。
基本は4800円で見回り代3700円が加算されている。
発砲した場合はプラス1800円。
1日の最大報酬額は1万300円だ。
これには駆除後の解体や火葬場での焼却処分までの作業も含まれる。
奈井江町はほかの自治体と比べて低い金額となっている。
「リスクの割には報酬が安い。色んなこと言われるだろうと思うけど、ハンターとして全国のハンターの代弁として言っている」(山岸さん)
所属ハンター5人 そのうち4人は高齢 「交渉は決裂したまま」
人手不足も理由の一つ。
奈井江部会には5人のハンターが所属。
うち4人が60代と70代と高齢。
ほかの仕事もあり、緊急性の高い要請があった場合、迅速に対応するのは難しい。
「報酬も上げる方向と言われたが、中途半端なら対応しない。人手の問題もある。やれる人がやればいい。交渉は決裂した」
担い手の確保のためにも、町に怒りをぶつける。山岸さんも現在、72歳だ。
報酬額4倍超えも 地元猟友会はゼロ 大半が車で1時間の町外ハンター
猟友会が辞退を申し出てから約3か月後の7月末、奈井江町は手当を引き上げた。
報酬は日当4800円に加え、新たに1時間あたり1400円が支払われる。
緊急の駆除出動のときは1.5倍の2100円に。
クマ捕獲時は2万円を支給する。
8時間稼働した場合、報酬額は4万1600円になる。当初案の4倍以上だ。
しかし、町が確保した11人のハンターの中に、地元猟友会のメンバーは1人もいなかった。
10人が町外に住み、40キロ以上離れたところで暮らし、車でも1時間はかかる。
「いつでも行けるわけではないよ」。
ハンターの1人が条件のひとつとして挙げたという。
いざというとき、大丈夫なのか――。
町民の不安は完全には解消しきれていない。
明治期から続く人喰いグマとの戦い “開拓民にとって死活問題”
北海道では明治の開拓時代から現在に至るまで、人間とヒグマの戦いが数多く記録されている。
1878年(明治11)年、札幌で4人が死亡したと言われている「丘珠事件」や、1915年に苫前町で8人が亡くなり、吉村昭の小説「羆嵐」のモデルになった「三毛別事件」など、枚挙にいとまがない。
ヒグマの歴史に詳しいノンフィクション作家の中山茂大さんによると、ヒグマにまつわる話はかつて話題の中心で、当時の新聞はヒグマを巡る事件をこぞって伝えていたという。
「今では考えられないが戦前から戦後にかけての新聞には誰々がヒグマを仕留めたと名前を記載している記事が多く見受けられる。人身被害のほか、農作物被害も相当多かった。開拓民にとっては死活問題。ヒグマの記事は比較的プライオリティが高かったのだと思う」
札幌農学校だった北海道大学の植物園(札幌市中央区)では、丘珠ヒグマをはく製にし、胃から出てきた被害者の手足のアルコール漬けを長らく展示した。
「当時は、ヒグマを仕留めると街中で解体することがたびたびあり何百人もの群衆が集まった。住民を安心させるという意味合いが強かったのでは」
「大根かじったかのようにガリガリガリ」それでも駆除続ける“名士”
長い歴史の中で常にヒグマと対峙してきた北海道の人々。実際に被害を受けながら、いまも駆除に携わる名士がいる。
奈井江町と札幌市のほぼ中間に位置する岩見沢市で「箱わな」でクマを駆除する原田勝男さん(84)は、24年前、シカ猟の最中にクマに襲われ、頭蓋骨や腕を骨折。左目を失明した。
「こんな感じでがぶっとかじられた。これ、そのときのクマの頭蓋骨」
30代で趣味としてシカ狩りを始めた。
クマに襲われた日はエゾシカ猟の解禁日で、狩り仲間とは別行動をしていたという。
「山を駆け上がる1頭のエゾシカに照準を合わせた。その瞬間、背後からガサガサと物音がした。振り向くと、わずか5メートル先に1頭のヒグマがいた」
発砲したが、クマはひるむことなく襲ってきた。
「大根のようにガリガリ」と頭や口、左目をかじられた。
そして、気を失った。
山林から運び出され16時間の手術 医者も驚き「生きているのは奇跡」
どれだけ時間がたったかは分からない。
意識が戻ったとき、頭の皮ははがれ、骨がむき出しになっていた。
耳はちぎれかけ、両目の眼球も飛び出ていた。
それでも生きていた。
「無線で仲間にクマにやられた、助けてくれと伝えた。もう出血多量で寒気がしてきていた。もうだめだと思っていた」
約5時間後山林から運び出され、釧路市の病院で16時間の手術を受けた。
「生きているのは奇跡」と医者に言われた原田さんの傷が完治したのは翌年の春。
左目を失い、手や顔は痺れたままだった。
原田さんを襲ったクマは手負い「すまなかったと思う 人里に出ない環境をつくるべき」
原田さんを襲ったのは体重160キロの雌で、すぐそばで死んでいたという。
原田さんが放った1発以外に、別のハンターが打った銃弾が何発も当たっていた。
「手負いで苦しんでいるところにたまたま俺が行ってしまった。複雑な気持ち。自分の方が生き延びた。すまなかったねとも思った」(原田さん)
これを機に原田さんは「クマが人里に出ないような環境をつくるべき」と考えるようになった。
ライフル銃を置き“箱わな”へ舵切る 20年で100頭以上捕獲
ライフル銃を持ち、スコープをのぞくことも難しくなった原田さんは、箱わなへとかじを切った。
今年7月11日、岩見沢市の郊外に広がる山林にいた。
4か所に設置した箱わなの見回りで、この日はヒグマの姿はなかった。
前年の同じ時期は約10頭を捕獲したが、今年はまだ2頭。
「クマがかからない。これはこれでいいのです。ウロウロされると地域住民に被害を与えないか心配ですから。人命というのが一番尊い」
原田さんはこの20年でクマを100頭以上、シカを約6000頭駆除してきた。
必要以上にとらないのが原田流で、わなの設置先にも強いこだわりがある。
「山奥には設置しない。市街地に近づいてきたクマだけをとる。無駄にとらない。山の中にいたって良いじゃないですか。これが“原田流”です」
この言葉には、彼の「共生」に対する深い思いが凝縮されている。
山奥でのクマの存在を許容し、彼らの自然な生活環境を尊重する一方で、人間の生活圏に侵入してくるクマには迅速に対応する。
このバランス感覚こそが「原田流」の核心である。
若い弟子たち 「年寄りが後継者育てる それが1番の近道」
北海道猟友会によると、道内のハンター登録者数は年々減り続けて、ピーク時の1978年に比べると、2023年は4分の1の約5,400人まで減少した。
60歳以上が半数近くにのぼる。
原田さんはこれまで2人にハンターとしてのノウハウを包み隠さずに教えてきた。
「もう任せられると思っています。地域を安心させてほしい。それ以上、2人に望むことはありません」
「個体調整で尊い命を奪い、動物には申し訳ないと思っている。被害や人里への出没を一気にゼロにするのは厳しい。でも減らすことはできる。年寄りが後継者を育てる。これが一番の近道」
原田さんは木漏れ日が当たる鳥獣魂碑に手をあわせる。クマと人間の共生は、まだ道半ばだ。