太平洋戦争末期、住民総出で日本軍の陣地や飛行場建設が行われた宮古島。先島(さきしま)防衛の要衝にされた当時、住民はどのような状況に置かれたのか。人々の記憶をたどる。
軍艦がずっと並んでいた
沖縄本島から南西におよそ300キロに位置する宮古島。島を囲むのは「宮古ブルー」と讃えられる青く美しい海。

砂川トミさん:
船がもう海に見えているわけ。もう、ずらーっと(軍艦が)並んで見えているからびっくりして
海が軍艦に埋め尽くされ、空を戦闘機が飛び交っていた時代があった。
建設された軍用飛行場
太平洋戦争が始まり1943年ごろから日本軍はアメリカ軍の沖縄侵攻に備え、宮古島に3つの軍用飛行場を建設した。
現在の宮古空港の位置には、平良(ひらら)の市街地への補給などを目的とした海軍宮古島飛行場があった。
陸軍は、島の中央あたりの野原(のばる)岳に中飛行場を、現在はさとうきび畑が広がる下地(しもじ)地域に西飛行場を整備。

飛行場の建設にあたっては、老若男女を問わず多くの住民が動員された。
新里春一さん:
戦争の準備で飛行場をつくっていった。飛行場の建設は命令で。中飛行場から西飛行場まで2カ所。みんな住民全部動員だよ
陸軍と海軍3万人が配備
当時、飛行場の建設に携わった新里春一さん、97歳。
新里さんは1942年3月に地元の尋常高等小学校を卒業してすぐ、防衛隊に召集された。

新里春一さん:
終戦まで防衛隊に召集されていたので、私はずっと兵隊と一緒。下地の馬場で朝から晩まで毎日突撃の練習や訓練。家から毎日通って訓練させられたんだよ。戦争、軍国主義って怖いよ
5万2000人あまりが暮らしていた島に“先島防衛”として続々と兵隊がやってきて、1944年12月までに陸軍と海軍あわせて3万人が宮古に配備されたといわれている。

新里春一さん:
飛行場の建設が終わると同時に兵隊が入り込んできて、兵隊でみんな埋め尽くされているもんだから、あっちこっち行っても兵隊がいた。兵隊さんだから米があるけれども、これが減った。アメリカ軍の攻撃などで交通が遮断されているでしょう。その関係で船が寄らないから、食べ物が減っているわけ
1944年10月10日、アメリカ軍機が沖縄各地を襲った十・十空襲。
この日、宮古島にも初めて空襲がやってきて、それから徐々にアメリカ軍の攻撃が激しくなってきたという。

主な標的となったのが、建設された飛行場であった。
空襲警報が鳴り響いた島の光景
当時、国民学校3年生だった砂川トミさん、87歳。

空襲警報が鳴り響き、戦闘機がやってきた島の光景を鮮明に記憶していた。
砂川トミさん:
空襲警報というから、お父さんが先頭になって、「早く早く」と言っていたら、飛行機はもう上に来ているんですよ。お父さんが「かがみなさい、かがみなさい」と言ったので、かがんでいたら、機銃がバラバラと当たらないで流れていきました
さらに、砂川さんが暮らす上野地域からは、島を取り囲むように軍艦が並ぶ様子が見えたという。

船がすでに見えていたため、父に「海に船が見えているよ」と言うと「もう上がってくる。艦砲射撃だから早く準備して逃げなさい」と言われたため、何も準備せず、一目散に逃げ出した。
宮古島では地上戦はなかったが、飛行機に追われるだけでも怖かったという。
戦時中や戦後はラジオや電話がなかったため、砂川さんは大人になるまで沖縄本島に地上戦があったことを知らなかった。
南西シフトで再び防衛の最前線に
戦後79年が経った今、先島諸島を中心に自衛隊の機能増強・いわゆる南西シフトが急速に推し進められている。

新里さんと砂川さんは、防衛の最前線に立たされているこの島の行く末を案じている。
新里春一さん:
弾薬庫もできたでしょ。施設をつくることによって、必ずそこから破壊されるから、なくしたいし、なくさんといかんさ。基地がある以上は、平和じゃないもんね。

砂川トミさん:
私は自衛隊が来ることは、反対でもなく中立なんです。どっちがいいかわらんからね。反対する人はいていいと思う。自衛隊も基地も日本を守っていると言っているさ。反対している人たちは、守られていないと。余計に戦争を導いていると言っているんですよね。戦争が来るのだと

多くの犠牲を生んだ先の大戦から、人々は何を学んだのか。
再び79年前のような光景にはなってほしくない。戦世(いくさゆ)を生きた人々の記憶が今、問いかけている。
砂川トミさん:
ウクライナにロシアが攻めているさ、あれは何のために攻めている?意味がわからん。何のために戦争をやっているか。日本も何のために戦争をしたかね
(沖縄テレビ)