世界を沸騰させたモンスター井上尚弥の劇的KO勝利の余韻はまったく収まる気配がない。
5月19日が“ボクシングの日“だとご存じだろうか。
72年前、日本初の世界チャンピオンが誕生した日だからである。
世界へ配信された世紀の一戦
2024年5月6日。ボクシング主要4団体(WBA・WBC・IBF・WBO)のスーパーバンタム級統一世界チャンピオン・井上尚弥は、布袋寅泰のギターに導かれ、父・弟らを従えてリングに登った。
“モンスター”と呼ばれる井上と、“悪童”の異名を持つルイス・ネリ(メキシコ)はさまざまなストーリをはらみながら、4万人のまなざしの中で対峙(たいじ)した。
東京ドームでのボクシング興行は、1990年2月11日のマイク・タイソン vs. ジェームズ・ダグラス戦以来、約34年ぶり。
歴史的な世紀の一戦のテレビ放送はなく、配信映像として世界へリアルタイム発信された。
72年前の世紀の一戦は後楽園球場・特設リング
1952年(昭和27年)5月19日。終戦の残滓(ざんし)ある水道橋の後楽園球場。
この記事の画像(18枚)日本初のボクシング世界タイトルマッチは、東京ドームの前身、後楽園球場の特設リングで行われた。
世界フライ級チャンピオン、ダド・マリノ(アメリカ)に挑んだ白井義男。
白井は、トレーナーのアメリカ人アルビン・カーンとリングに向かった。
王者マリノのトレーナーは、日系人のスタンレー伊藤だった。
スタジアムには3万人の観客が詰めかけたという。
72年前の世紀の一戦もテレビ放送はなく、ラジオの生中継だった。
聴取率は83%。そして歴史的な試合の模様はニュースフィルムに残された。
日米を結んだ数奇な人間関係
終戦後、復員しジムで汗を流す白井。たまたまジムに立ち寄ったカーン博士と出会ったことが始まりだった。
アルビン・カーン博士はシカゴ生まれで、GHQ天然資源局職員として来日、生物学の博士だった。白井の長い手足にボクサーとしての可能性を感じたのだ。
当時の日本のボクシングはラッシュ一辺倒で、文字通り“拳闘”だった。
カーン博士が考えるボクシングは「打たせずに打つスポーツ」。白井ならばそれを体現できると感じ、声をかけた。
しかし白井は、戦争で腰を痛めていた。カーン博士は庶民には手が届かないステーキなど栄養価の高い食事で白井の肉体改造に着手。さらにアメリカの最新トレーニングを実践し、トップボクサーの映像を見せるなどして白井を育て上げた。
一方、チャンピオンのダド・マリノは、ハワイ生まれのアメリカ人。トレーナーは日系人のスタンレー伊藤。マネジャーのサム一ノ瀬も日系人だった。
数年前まで銃口を向け合っていた戦争当事国の日本とアメリカが、ボクシングというスポーツを介して交錯した。
世界チャンピオンはわずか8人の時代
井上尚弥は、世界4団体のスーパーバンタム級の統一チャンピオン。
4団体とは、WBA・WBC・IBF・WBO。そして階級は17階級(WBAは18階級)。
つまり世界チャンピオンの座は、4団体×17階級+1 = 69。最多だと69人の世界チャンピオンが同時に存在することになる。
白井の時代1957年は、団体は1つで8階級(フライ、バンタム、フェザー、ライト、ウェルター、ミドル、ライトヘビー、ヘビー)。世界チャンピオンは8人しかいなかった。
そして日本は、世界タイトルマッチの経験がなかった。コミッションもなく手探りでの開催を目指していた。
白井のマネジャー役も務めていたカーン博士は、チャンピオン、マリノのマネジャーで日系人のサム一ノ瀬と対戦を交渉した。
まず1951年5月、ノンタイトル戦としてマリノを日本に招いた。
来日の時、白井はスーツ姿で羽田空港へ向かった。タラップを降りて来るマリノのもとに駆け寄り、花束を渡し笑顔で握手をした。
そしてそのままオープンカーに分乗して銀座をパレード。沿道に集まった1万人の観衆へふたりは手を振って応えた。
対戦を前に顔を近づけての威嚇や罵倒し合うような場面は皆無だった。
日米両陣営は、ボクシングが紳士のスポーツであることを国民に示した。
その姿もニュース映像としてカメラはとらえていた。
テレビの隆盛とボクシング
日本のテレビ歴代視聴率で、NHK紅白歌合戦81.4%やW杯サッカー66.1%に次ぐ第6位に、1966年5月31日のボクシング世界バンタム級タイトルマッチ、ファイティング原田 vs. エディ・ジョフレ(フジテレビ)がランクインしている。
視聴率は63.7%。第8位もファイティング原田の世界タイトルマッチで60.4%(フジテレビ)。
また今回の井上のファイトマネーが10億円と話題だが、1952年の白井のファイトマネーは40万円、マリノは2万5000ドル(日本円で約900万円)といわれている。
モンスターと開拓者
小石川後楽園の緑萌える季節。都心に鎮座する真っ白なビッグエッグで、モンスターは初回のダウンをもチカラに変えて第6ラウンドで悪童を葬った。
4団体統一チャンピオン・井上尚弥27戦27勝(24KO)無敗。
72年前、白井義男は、ダド・マリノと最終15ラウンドまで打ち合い、判定勝ち。
日本初の世界チャンピオンとなった。
まな弟子・白井の肩を抱いて喜ぶカーン博士。そして笑顔で、白井の勝利を称えるマリノ、スタンレー伊藤、サム一ノ瀬。後楽園球場は大歓声に包まれていた。
12年後、マリノのトレーナー、スタンレー伊藤は、1964東京五輪で日本の特別コーチを要請され、桜井孝雄の五輪ボクシング競技初の金メダルを後押した。
ハワイの名伯楽・スタンレー伊藤は、西城正三、具志堅用高、渡嘉敷勝男、鬼塚勝也、勇利アルバチャコフなど、多くの世界チャンピオンの指導にも関わった。
5月19日は「ボクシングの日」
拳闘がスポーツへと変わった分岐点。
白井義男が日本人初の世界チャンピオンとなった5月19日を「ボクシングの日」にすることを日本プロボクシング協会は2010年に認定した。
日本の世界チャンピオンは、男子102人・女子32人、合計134人(2024年5月現在)。
東京ドームに隣接する、通称“黄色いビル”にある後楽園ホールは、“ボクシングの聖地”と呼ばれている。
ホールの片隅には、日本のジム出身の世界チャンピオンたちのネームプレートが飾られている。
時代を彩った多くのチャンピオンたち。
そんな中でも、井上尚弥と白井義男の存在は別格といえる。
次の世代にボクシングの歴史を伝えたい、そんな思いを持つ有志がいる。中心メンバーは、日本ボクシングコミッション・安河内剛、共同通信解説委員・津江章二、自らもボクサーライセンスを持ち、日刊スポーツで担当記者として白井義男から薫陶を受けた首藤正德。
白井の生まれた東京・荒川区を起点に、グローブやガウンなどゆかりの品を展示しながら歴史を伝えている。今はジムやボクサーごとに散逸している資料をまとめて、「ボクシングの殿堂」を設立することが大きな夢だ。
生誕100年目の5月、泉下の白井には世界を震撼(しんかん)させたモンスターの姿はどのように映っているのだろうか。
(執筆:佐藤 修)