この春に大学を卒業し、日本赤十字社に就職するという新たな節目を迎えられた愛子さま。初のお一人での地方訪問先となった三重県では、自らと同じ「天皇の娘」として生きた女性が残した「美しい恋の歌」に触れられた。そして愛子さま自身の「和歌」は、皇室の和歌の相談役が「ちょっと驚いた」と言うほどの変化を見せていた。卒論のテーマに選ぶほど関心を寄せられている「和歌」に馳せた、愛子さま22歳の思いに迫った。

伊勢神宮に差す光

3月26日、初めての単独での地方訪問先である三重県の鳥羽駅に愛子さまが到着した際、ホームに水がたまるほどの土砂降りだった。

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ところが、それから1時間半あまり、愛子さまが大学卒業を報告するために伊勢神宮の外宮に到着される頃には、集まった人々が、空を見上げるほど雲間から青空が見えていた。

さらに、天皇家の祖先とされる天照大神が祀られた内宮正殿への鳥居をくぐられると、雲間から光が差した。参拝客からは、「来られる直前になって晴れてきた。さすがだな」「光っていました。皇族の方々のパワーってすごいなと思いました」との声があがった。

4月1日には、スーツ姿で日本赤十字社に初出勤された愛子さま。報道陣の問いかけに、「早く職場になじみ、皆さまのお役に立てますよう、頑張ってまいりたいと思っております」と笑顔で応じられた。

この日、受けた辞令はボランティアの育成や研修などにあたる「青少年・ボランティア課」。今後は、皇族としての務めと両立しながら嘱託職員として勤務される。

思えば、2001年12月、「人を愛し、愛される人に育って欲しい」という両陛下の願いから、「敬宮愛子」と命名され、その一挙手一投足に注目がそそがれた愛子さま。

そんなご両親の思いに応えられるように、天真爛漫な笑顔は、多くの人たちを魅了してきた。ところが、その歩みは順風満帆ではなく、つらい季節もあった。

自分の力で乗り越えられた“登校問題”

フジテレビ宮内庁担当の宮﨑千歳記者は、「小学校二年生の時に、通学に不安を覚えて、毎日、普通に登校するのが難しくなってしまわれた時期が一番大変でいらしたんじゃないかなと思います」と振り返る。校内に乱暴な児童がいることから「登校するのが怖い」と通常の登校が難しくなってしまわれた愛子さま。

2010年8月、那須の御用邸に向かわれる映像を見ると、当時8歳の愛子さまから、あの、弾ける様な笑顔が消えていた。

宮﨑記者によると、その時期に両陛下は、「頑張って行きなさい」と言うのではなく、どうしたら少しずつ学校に行けるようになるのかをよく相談されていたという。当時、雅子さまは毎日愛子さまと一緒に学校に行かれていた。全部の授業には出られなくとも、少しずつでも授業に出られるようにしていくというのが、唯一の方法だとお考えになったようだ。

無理に行かせるのではなく、自分の中で折り合いをつける勇気を学べるよう見守られていたという両陛下。その結果、徐々に学校にいられる時間が長くなり、最終的には付き添いなしに、お一人で行けるようになられたという。

宮﨑記者は、「少し時間はかかりましたが、本当に愛子さまがご自分の力で乗り越えていくまで寄り添って、ずっと、待ち続けていらした姿は、今もとてもよく覚えています」と振り返った。

日本赤十字社を選ばれた理由

そんな両親の思いに、応えられる様に、2022年に成人を迎えられた愛子さまは会見で、「両親は,私の喜びを自分のことのように喜び,私が困っているときは自分のことのように悩み,親身に相談に乗ってくれるような,私がどのような状況にありましても一番近くで寄り添ってくれるかけがえのない有り難い存在でございます。これまでたくさんの愛情を注ぎ育ててくださったことに深く感謝しております…」と感謝を述べられた。

その愛子さまが、就職先人日本赤十字社を選ばれた理由も、宮﨑記者には、腑に落ちることがあったという。

宮﨑記者によると、愛子さまが小学生の時にお住まいの赤坂御用地の中でネコが出産し、子猫のもらい手を探すために、愛子さま自らがポスターを作って友達に呼びかけ、大切に子猫を育ててくれる人を探されたという。「人も動物も助けたいという思いを、昔から持っていらっしゃったので、私はすごく日赤っていう選択は、とても、こうストンと納得したんです」

900年前の「天皇の娘」に思いを馳せ

こうして、就職に先立ち、先月26日からお一人で初の地方訪問を経験された愛子さま。実は、伊勢神宮を参拝された翌日同じ三重県の、ある博物館に立ち寄られたことはあまり詳しく報じられてこなかった。

その博物館とは、「斎宮(さいくう)歴史博物館」。愛子さまを案内した、博物館の天野秀昭課長によると、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるために派遣される天皇の娘「内親王」が、伊勢神宮で祭祀に携わる「斎王(さいおう)」として    派遣されていた場所だという。天皇が即位する度に、愛子さまと同じ立場だった女性である「未婚の内親王」が占いで選ばれ、派遣されていたそうだ。

愛子さまが見学された資料の中には、現在、一般公開されていない物もあったのだが、特別にMr.サンデーのカメラが撮影を許された。

その資料とは、「時代不同歌合絵巻断簡」。時代の異なる歌人二人の歌がそれぞれ3首ずつ絵巻に記されたもので、その中には、後白河天皇の娘である式子(しょくし)内親王の和歌が3首綴られていた。この絵巻を見た際の愛子さまの様子について、天野課長は、「この式子内親王のことをご自身でも勉強されているといったことをおっしゃられました」と振り返る。

天皇の娘による「恋の歌」

実は愛子さまの卒論のテーマは、この「式子内親王と、その和歌について」というものだった。天野課長によると、愛子さまは「式子内親王の歌はいずれも美しい歌ばかりで」といったことを話されたという。

その歌は美しいものばかり…今から、約900年前に生まれ、同じく、内親王として生きた一人の女性について、思いを馳せていらしたのだろうか。

では、そこに書かれていた和歌とはどんな内容だったのか。

皇室の和歌の相談役として愛子さまの指導も行う永田和宏氏に聞くと、「一つは「ながめわびぬ 秋よりほかの やどもがな 野にも山にも 月やすむらん」という歌。

これは、月を見ていろんなことを思ってしまう。秋はものを思わせる季節なので、秋のない、そういう宿ってないのかな、という歌」「物を思わせるというのは、人を恋しく思うということで、やはり恋の思いが非常に強く漂ってる歌です」ということだった。

残る二首も、愛しい人を思う狂おしい心の内を激しくも美しい言葉に託したものだという。

永田氏は、「愛子さんはどれに感銘を受けられたのかは、ちょっとわからないですけど」と前置きしながらも、愛子さまが新年の歌会始に出された和歌について、「去年と、それから今年の歌が、ずいぶん大きく変わった」「ちょっと驚いたことがありましたね」と愛子さまの心境の変化を指摘した。

時を超えて響き合う

去年の歌会始に愛子さまが提出されたのは「もみぢ葉の 散り敷く道を 歩みきて 浮かぶ横顔 友との家路」という作品だ。

その意味について永田氏は、「紅葉の葉っぱが散り散っている道、友との家路を辿る、家に向かって帰るんですけど、その時に友達と喋ってると、その友達の横顔が見えるという。去年は非常に素直な、友達と一緒に帰る喜び、その楽しさを歌っておられた」と解説する。

ところが、今年1月にお寄せになった歌は、「幾年(いくとせ)の 難き時代を 乗り越えて 和歌のことばは 我に響きぬ」

この歌について、永田氏は「非常に変わりました」「それこそ式子内親王の和歌だったんだと思いますけど、その和歌の言葉が直接自分に響いていく、千年前の歌の言葉が、今の私、現代を生きる私に直接響いていく」と解説する。

古の歌を前に1000年の時を超え、交錯する、二人の内親王の心。

そんな愛子さまは、伊勢の博物館でこんな質問をされたという。

斎宮歴史博物館 天野課長:
「斎王になった天皇の娘というのは、恋愛というのは許されていたのか?といったような、そういったご質問をいただきました。斎王は伊勢神宮の天照大神に遣えるということですので、恋愛はできないとご存じのことだと思いましたが『斎王は、恋愛はできないわけですが、 許されないが故に物語になったのではないか』という風に返事をしました。愛子さまは、『やはりそうですよね』と確認をされていました」

その時、愛子さまの心に一体、どんな思いが去来していたのだろうか。

皇室の和歌の相談役である永田和宏氏は、「これから成人になって、若い時期を、今度は日赤で勤められるので、そういう現場での歌、あるいは、当然、恋もされるでしょうから、恋の歌もどんどん作っていただくのは良いというふうに思ってます」と期待を寄せた。

愛子さま、22才の春。就職に際して寄せられた文書には、結婚観について、こう記されている。

「一緒にいてお互いが笑顔になれるような関係が理想的ではないかと考えております。両親から具体的なアドバイスを頂いたことは特にございませんが、両親のように、お互いを思いやれる関係性は素敵だなと感じます」