東日本大震災の津波で両親が犠牲になった女性は、自らも躁うつ病になり寝たきりの生活が続いたそうだ。しかし、語り部となって感情をストレートに伝えることで立ち直った。震災当時 大学生だった息子と語り部を続ける。親子にはぜひ聞いてもらいたいことがある。
津波で湖のよう…両親が犠牲に
この記事の画像(15枚)高橋匡美さん(講演):
2011年3月11日14時46分、私たちは突然 強い強い揺れに襲われました。故郷というのはずっとあり続けるものだと思っていた。それがある日、めちゃくちゃに壊されて奪い去られてしまう。それが災害なんです
2024年3月10日 浜松市で東日本大震災での体験について話した高橋匡美(きょうみ)さん。これまで300回以上 語り部としての活動を続けているが、この日は息子の颯丸(かぜまる)さんとともに初めて親子で講演を行った。
2人は震災が発生した3日後、匡美さんの両親が住む宮城県石巻市南浜町の実家を訪れ、津波の被害を目の当たりにした時のことを振り返った。
高橋匡美さん(講演):
宮城県は15分も車で走れば田園地帯が広がるが、そこはまるで湖のようになっていた。ぺしゃんこになったり横倒しになったドロドロの車が転がっていたり、家がちぎれたようなのが転がっていた
千葉颯丸さん(講演):
祖父母の姿がなかったので、「もしかしたら誰かと逃げたのかな」と思ったが、私はふと何かに呼び止められた。言葉では表現しがたいけれども、後ろから「もうちょっと探してみようよ」という何かを感じ、もう一度家の中を探し始めた。すると一階の廊下の奥で祖母がうつ伏せになって冷たくなっているのを見つけた
また、匡美さんの父親も遺体安置所で変わり果てた姿となっていた。
生き残った人の心にも大きな痛み
震災による津波は、故郷、家族、そして匡美さんや大学生だった颯丸さんの心ものみ込んでいった。
千葉颯丸さん(講演):
母は躁うつ病として診断されて、毎日寝たきりの生活をしていたので、毎日のように暗いメッセージが来ます。「寂しい」「苦しい」「死にたい」とか。
まわりの大学生が幸せそうに見えた。このもどかしさに対して、強烈な怒りというよりマイルドな怒りを常に持っていた
語り部になって心が安らぐ
心に大きな痛みをかかえた一方、匡美さんは体験について話すことで安心できた面もあり、2015年から語り部の活動を始めた。自分の感情をストレートに伝え、命の尊さを訴える。
高橋匡美さん(講演):
あの日 私の父や母のように生きたくても生きられなかったたくさんの命。すごく残念なことに、ここにいる全員がみんな揃って明日を迎えるということは奇跡なんだと、この震災でたたきつけられました。でもだからこそ明日じゃなくて今、一瞬一瞬をみっともなくても格好悪くてかまわない、はいつくばってでも生きていかなければと、自分に言い聞かせています
話を聞くことが“人助け”
颯丸さんもまた、自分が語り部となることで、苦しさを人に話すことの重要性を伝えようとしている。
千葉颯丸さん(講演):
支援物資を送るとか寄付をすることも立派な行動だと思うが、隣にいる人の話を聞くだけでも立派な人助けだと、自分の経験を通して感じた。聞いてあげることが、次につながると感じたので、それを伝えられれば
震災当時の感情を伝えることの意味
2人は講演で防災のための知識についてほとんど話さない。2人が東日本大震災当時の感情を伝えることで、話を聞いた人たちは命を守る備えの大切さを実感していた。
来場者は「実体験の話を聞く機会はいままでなかったので、震災を受けたらこういう状況、心理状態になるとわかった上で準備を進めることで、(訓練とは)意味合いが違う形で備えられる」と話す。
3月11日、2人は浜松市の学生たちが毎年行うキャンドルイベントにメッセージを寄せ、復興を祈った。
高橋匡美さん:
(講演を聞いた)ひとりひとりが何かを感じて、「命を守ろう」とか、「大事な人と連絡を取ろう」とか、「きょう一日を精一杯生きよう」とか、聞いた人がそれぞれ考えてくれればいい。私はこの語りを心をこめて、丁寧に全力で続けていくだけ
親子で語り継ぐ震災体験。ひとりひとりが体験した人たちの当時の感情を受け止めることが、命を守る備えにつながるはずだ。
(テレビ静岡)