“ミスター麻雀”小島武夫プロ逝去
「ミスター麻雀」と呼ばれた伝説の雀士、小島武夫プロが5月28日に心不全で亡くなった。享年82歳。

Yahoo!検索ランキングで「小島武夫」が1位に
多くのプロ雀士や麻雀愛好家から「小島先生」という愛称で好かれていた小島プロ。
訃報の反響は大きく、同31日のYahoo!検索ランキングで「小島武夫」の名前が1位となった。

小島武夫プロの半生
小島プロは1936年福岡・博多出身。
中学を卒業後、ケーキ職人を経て、雀荘にボーイとして勤務。
20代後半で上京後、東京・神保町にあった雀荘「アイウエオ」に就職し、マネージャーとして生計を立てる。
同店の一角は、出版社・文藝春秋の創業者でもある菊池寛氏が初代総裁を務めた日本最古の麻雀競技団体・日本麻雀連盟の道場でもあったため、小島プロは競技麻雀を推し進める同連盟から、伝統と格式のある大きな麻雀大会に「出てみないか」と誘われ参戦、いきなり優勝して業界での知名度を上げていった。
当時は自動麻雀卓など存在してない時代。
手積みで麻雀を楽しむ中で、“クマ師”と呼ばれるイカサマ師による不正行為も少なくなかった。
同店の客に対しての不正行為を許せなかった小島プロは、自らもイカサマのやり方を習得して不正行為をさせないよう目を見張らせていたという。
日本テレビ系で深夜に放送されていた「11PM」内の麻雀コーナーでは、その手法を披露したことで、クマ師たちの“商売”にも支障が出たそうだ。
小説「麻雀放浪記」で知られる“阿佐田哲也”こと色川武大氏や古川凱章氏とも「アイウエオ」で出会い、のちに麻雀集団「麻雀新撰組」を結成、『11PM』出演など積極的なメディア露出を展開し、戦後の第二次麻雀ブームを先導していく。
1981年3月には日本プロ麻雀連盟を設立、初代会長を務めた。
その活躍は多岐に渡り、1999年に発売され50万部以上のベストセラーとなった「絶対負けない麻雀 読むだけで強くなる驚異の麻雀戦術」など麻雀関連の著書も多数手がけた。
“先生”と親交の深かった馬場プロに話を聞いた
訃報に際して、公私で親交の深かった麻雀タレントの“バビィ”こと馬場裕一プロに取材を申し込み、小島プロの生前のエピソードについて話を聞いた。

先生の極秘入院を知った馬場プロは5月中旬に病院を訪れたという。
病床の小島プロとは言葉を交わすことはできず、
「先生、先生」と声をかけると、微かに笑顔を見せてくれたものの、
元気な時にいつも言ってくれた「おう!」という声も聞けなかった。
「多分、自分の弱った姿を見せたくなかったんですね…」
病床に伏す“先生”の気持ちを察した馬場プロ。
「病院に行かなければよかったと後悔しました」と語る表情は、とても悲しそうだった。
馬場プロ「先生は豪放にして磊落な人でした」
小島プロの人柄については
「“豪放にして磊落”な人」
だったという。
馬場プロと“先生”の出会いは1976年にさかのぼる。
当時、月刊誌「近代麻雀」を出版していた竹書房でアルバイトをしていた17才の馬場プロ。
社内で小島プロと同誌読者との麻雀対局イベントが開催された時に初めて対面する。
当時、小島プロは40歳。
最初に会った時の印象は
「人懐っこさのあるカッコイイ人」
だったという。
優勝賞金100万を一晩で使い果たす豪快さも
ある日、先生に寿司をご馳走してもらう機会があった。
馬場青年は、初の“回らない寿司屋”に興奮していたそうだが、
最後の会計時、お代32300円に対して
小島プロは
「はい、2300円。あと3万円ね。じゃ。」
と端数の金額だけを支払い、そのまま店を後にしたという。
いわゆる“ツケ払い”
大学生だった馬場プロは、小島プロの粋な姿に憧れを抱いた。
麻雀大会に優勝して賞金100万円を獲得した時などは、関係者と飲みに行き、一晩で使い果たすこともしばしば。
「“宵越しの金は持たぬ”ではないですけど、博多っ子なのに、江戸っ子みたいな人でした」
記録より記憶に残る雀士・小島武夫
麻雀番組に多数出演していた小島プロ。
その代表的な番組の1つがCS放送「MONDO TV」の『モンド麻雀プロリーグ名人戦』。
11度参戦した小島プロの通算成績(09/10シーズン以降の名人戦(8戦)+王座(1戦)の成績で9回戦分のデータ)を「MONDO TV」さんから取り寄せた。
「半荘総数」65回
「総局数」836回
「平均順位」2.62位、
「平均和了率」(ツモやロンで和了(アガ)った点数の平均)7143.42点、
「放銃率」(相手に振り込む確率)0.102
この成績を馬場氏に見てもらったところ、
平均和了率7143.42点は「非常に高く」
放銃率0.102については「非常に低い」
と評価した。
~「平均順位」2.62位でも「平均和了率」が高い~
小島武夫は常に高得点の手を狙う“記録より記憶に残る雀士”
だったことを示していた。
TV史上初。「伝説の8巡目九蓮宝燈ツモ」
その象徴的な場面が2009年5月25日(月)にMONDO TVで放送された「第3回名人戦」の「南4局2本場」であった。
そこで小島プロは、その難易度の高さから「出たら死ぬ」とまで噂される役「九蓮宝燈(チューレンポウトウ)」を僅か8巡目で和了ってみせたのだ。
アマチュアのいないプロ雀士4人による対局では、TV放送史上初の偉業だった。

余談だが、小島プロは1976年の「第1期 最高位戦」でも「九蓮宝燈」を和了っている。

プロ雀士のみが参加する大会で2度も“奇跡”を起こしたのは、後にも先にも小島プロしかいない。
『THEわれめDEポン』では、終始ノー和了だった理由
フジテレビ『THEわれめDEポン』にも第一回大会に出場している。
その大会では終始、“ノー和了(一回も和了れないこと)”だった小島プロ。
プロの実力を考えると驚くべきことだが、
「ザンク(3900点のアガリのこと)程度では和了らず、最低でも満貫以上の手を狙っていました」(馬場プロ)
という理由を聞くと納得できた。
馬場プロ「メンチンのバビィ」誕生のルーツ
左利きの馬場プロは
小島プロから
「ファンを大切にしなさい」
「(左利きを生かして)常に格好良く美しく打ちなさい」
と言われていたという。
好きな手役はチーやポンを言わない門前(メンゼン)の「清一色(チンイツ)」で、ファンからは「メンチンのバビィ」とも呼ばれている馬場プロ。
それは先生からの「ファンを大切に」「格好良く美しく打つ」という“教え”を体現しているのかもしれない。
“ミスタープロ野球”のように愛されていた“ミスター麻雀”
ここ数年は、愛嬌のある独特の話し方から若い世代にも「ふがふが」の愛称で親しまれていた小島プロ。
“ミスター麻雀”小島武夫プロは、“ミスタープロ野球”長島茂雄のように皆から愛されていた。
通夜は6月8日午後6時、葬儀・告別式は9日午前9時30分から、いずれも東京・五反田の桐ケ谷斎場で行われる。
天国でも大橋巨泉氏や阿佐田哲也氏、古川凱章氏らと卓を囲むのだろうと想像しつつ、心からご冥福をお祈りしたい。
