朝鮮半島から日本への命がけの“引き揚げ”。当時、母が唯一持ち帰ったのは子どもを育てるための「ミシン」だった。戦時を生き抜いた母の思いを伝えようと、ミシンを描き続けてきた女性画家の戦争の記憶。

“戦時の思い”を伝えるために

佐賀・玄海町の画家・藤井節さん83歳。独特のタッチで描いているのは、黒いミシンだ。

黒いミシンの絵を描く藤井節さん
黒いミシンの絵を描く藤井節さん
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藤井節さん:
私が5歳の時に戦争は終わりましたので、戦争の時の思いっていうのを、小さい子どもたちにそれを伝えたいというのがあったんですよね。だからミシンの絵を描いたり、絵本にしたり

藤井さんは幼いころ、当時、日本が事実上支配していた朝鮮半島で育った。

藤井節さん:
飛行機が飛んでいるとか。夜の怖い感じとか、何となく空気が不穏な感じというのを感じ取っていたんですよね

日本人の両親と兄弟6人の8人家族。警察官だった父は戦地へ向かった。

藤井節さん:
もうナンキンムシとかね、シラミとかいろいろな虫がカラダにくっついている、そういうところにお父さんはいるのよっていう話を母がしていました

命がけで持ち帰った「ミシン」

戦前から、多くの日本人が朝鮮半島や中国東北部の満州、台湾などで暮らしていた。しかし、戦争に負けたため約660万人が、全ての財産を手放し命がけで帰国した。

そんな中、引き揚げの際に藤井さん一家が唯一持ち帰ったのがこの「ミシン」だった。

藤井節さん:
日本に帰っても物が無い、自分で何でも作らないといけない。子ども6人育てあげるのにはミシンが絶対必要だということで、もう家具類とか何もかも置いて母がミシンだけ持ってきた

港では、たくさんの日本人が引き揚げ船の順番を待っていた。

藤井節さん:
韓国のプサンの港にいるところはすごく強烈に覚えています。たぶん「興安丸」という引き揚げ船だったと思うんですよ。とにかく人ごみと臭いにおいを覚えている

子どものために…母の「先見の明」

一家は無事に日本に帰国。十分な食べ物もなく苦しい生活だったが、母が持ち帰ったミシンを使い様々な物を作ってくれたおかげで、藤井さんは学生時代ほとんど不自由しなかったという。

藤井節さん:
母は「子どもはね、財産だから十分に教育を受けさせたい」と。朝鮮からミシンを担いで持ってきたということも、母は先見の明がある人だったなあってつくづく思います

藤井節さん:
母は魔法の手のようにミシンで洋服、ランドセル、靴下、リュックサックなど子どもたちに必要なものは全部作ってくれていました

60歳で画家となった藤井さん。自分の体験を多くの人に伝えるため、20年以上、ミシンの絵を描き続けてきた。

ロシアのウクライナ侵攻の様子を描いた絵
ロシアのウクライナ侵攻の様子を描いた絵

ロシアのウクライナ侵攻の様子を描いた絵には、女性が抱えるミシンの上には、楽しく踊る人々。一方、すぐ近くでは空襲で燃え盛る炎の中、逃げる人たちの姿が対照的に描かれている。

藤井節さん:
本当に胸が締め付けられるような。自分の5歳の時の引き揚げの体験と重ね合わせて絵を描いてみました

60年ぶりに動かしたミシン

この日、藤井さんはずっと家に残しているミシンを約60年ぶりに動かしてみた。

60年ぶりにミシンを動かす藤井さん
60年ぶりにミシンを動かす藤井さん

藤井節さん:
こうやって動かしていました。動いてびっくりした。動かないと思っていた。この音が優しい音に聞こえるんですよね。母を思い出します。すごい。よみがえったみたい

玄海町の町民会館に飾られている藤井さんのミシンの絵
玄海町の町民会館に飾られている藤井さんのミシンの絵

藤井さんのミシンの絵は、玄海町の町民会館にも飾られている。

藤井節さん:
朝鮮半島から引き揚げてくる時に、トランクを開けたらびっくり箱のようにミシンが出てきて

戦争や引き揚げの記憶を、ミシンを通して伝えている。

玄海教育委員会・松尾憲作主査:
子どもたちもたくさん利用致しますので、たくさんの方の目に触れてもらいたいと設置しました

83歳となった藤井さん。これまでに描いたミシンの絵は30枚以上にのぼる。

藤井節さん:
これはもう最後かな、ミシンは。そういう思いで描いています

(サガテレビ)

サガテレビ
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