九州最高齢、110歳の大山さんは、太平洋戦争で幼い2人の娘と妻を残し満州へ徴兵された。ソ連との国境“最前線”で受けた過酷な戦争体験。終戦直前に本土の防衛命令で日本へ帰り、シベリア抑留は免れたものの、戦友を残したままの帰国は今でも心の傷として残っている。

ソ連との国境“最前線”へ

佐賀県基山町に住む大山常次さん。

大正2年(1913年)生まれ、現在110歳で九州最高齢の男性だ。

この記事の画像(12枚)

大山さんは今から80年前の1943年、30歳の時に招集され、1歳と2歳の娘と妻を残し当時日本が事実上支配していた満州へ赴いた。

配置されたのは現在の中国牡丹江。

川を挟みソ連との国境で、“最前線”で戦争を体験したという。

大山さんの元には、当時の写真が残されていた。

戦車隊の写真を大事そうにながめる大山さん。

写真を見ながら、「戦友だ」と繰り返した後、「だいぶ死んだ…」とつぶやいた。

本土防衛の命令で日本へ

昭和20年(1945年)8月15日。

日本はアメリカをはじめとした連合国に降伏したが、大山さんの部隊は終戦直前3月に本土防衛の命令が出たため日本へ向かった。

部隊の連隊長だった皇族の閑院宮春仁王が、戦局の悪化から本土へ戻ることとなり、共に帰ることとなったのだ。

大山常次さん:
安心した。満州に残っていれば、ソ連に行っていたから。満州に残った人はソ連に行っている。私は運よく昭和20年(1945年)の3月の終わり20日ごろから満州を出た

戦友「俺も連れて帰ってくれ」

終戦の直前、ソ連(現ロシア)は日本と結んでいた条約を破り、国境を越え侵攻。

満州にいた多くの日本兵を捕虜として極寒の地で強制労働をさせた。いわゆるシベリア抑留だ。

抑留された約57万5千人うち、5万5千人は祖国の土を踏むことはできなかった。

大山さんは現在の埼玉県で本土防衛の任務にあたり、終戦を迎えた。

大山常次さん:
終戦の詔書が下ったから、これには文句言う者はいなかった

大山さんが戦争から帰ってきてから生まれた、息子の和徳さんは父からよく戦争の記憶を聞いていたと言う。

大山和徳さん:
内地に帰ってくるときに戦友が「俺も連れて帰ってくれ」と。そんな話も(父は)していた。自分たちは帰らなければいけないけれども、戦友は満州のソ連との国境に残って。それが一番つらかったと父から聞いた

「いつ死んでも良いと覚悟」

終戦後は部隊長の「増産に励むように」との言葉より、家族がいる基山町に戻り農家として過ごした大山さん。

大山常次さん:
戦争はいろんな事あったもんなあ。もう命もなんも。いつ死んでも良いと覚悟していたから。生きているのは運が良かったような感じだった

(サガテレビ)

サガテレビ
サガテレビ

佐賀の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。