国内外で軍人、国民あわせて310万人が犠牲になったとされる太平洋戦争。生き残った家族たちの運命も過酷だった。子どもの時に家族と死に別れ、その後の運命が大きく変わった2人の「戦争の記憶」。

“防空壕の中で”吹き飛ばされた

右近守さん:
きょうだいとして一緒に育てられていない。けんかをしたり、なんかしたりという記憶が全くない

佐賀・小城市に住む右近守さん
佐賀・小城市に住む右近守さん
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佐賀・小城市に住む右近守さん(82)。守さんも戦争で運命が変わった大勢の中の1人だ。

右近守さん:
長崎市の稲佐で爆心地から1.8kmで被爆したと書いてある

1945年8月 原爆投下
1945年8月 原爆投下

1945年8月、アメリカは広島・長崎に原子爆弾を相次いで投下。原爆が投下された時、守さんは4歳だった。

右近守さん:
わたしと兄と姉の3人で長崎の稲佐山へのぼるロープウエーがある。その発着所にある淵神社というところで遊んでいたんですよ。防空壕(ごう)の中に入っていて異様な光が防空壕に入ってきたのと、ドーンというものすごい風が防空壕の中に入ってきて、防空壕の中で吹き飛ばされた

原爆投下後の淵神社周辺の写真
原爆投下後の淵神社周辺の写真

投下後、アメリカ軍が上空から撮影した淵神社付近の写真。防空壕の前にあった製材工場の木がバラバラに吹き飛ばされ、多くのけが人や遺体があったという。

長崎原爆資料館所蔵の絵
長崎原爆資料館所蔵の絵

右近守さん:
淵神社で遊んでいた子どもたちが裸で遊んでいるものですから、ここから皮がむけて、引きずりながら「水、水」と言いながら、もぞもぞしている人、亡くなっている人。「やけどをしているから水をやったら死ぬから水をやったらいかんぞ」と…

“きょうだい”の記憶が全くない

幼いころに父を亡くしていた守さんは長崎を離れ、母・カツさんの故郷で鹿児島の離島・甑島へなんとかたどりついた。しかし、母の顔は原爆投下前とは大きく違っていた。

右近守さん:
顔は崩れていて、お岩さんみたいになっているものですから、蚊帳の中からわたしを呼ぶんですけど怖くて入っていけなかった

1枚も写真が残っていない守さんの母は、原爆投下からちょうど1カ月後の9月9日に亡くなった。37歳だった。その年の12月までに7万3,800人余りが長崎の原爆で命を失ったとされている。

戦後、きょうだいはほとんど会わなかった
戦後、きょうだいはほとんど会わなかった

戦後、守さんら3きょうだいは別々に育てられ、会うことはほとんどなかった。

被爆体験をありのままに伝える

右近守さん:
わたしが被爆者ということは知っているが、子どもたちにあまり詳しいことは言っていない。孫たちにも言っていない

9人の孫に恵まれた守さん。80歳を超え、ある取り組みを始めた。

小学校で原爆体験を伝える守さん
小学校で原爆体験を伝える守さん

この日、守さんの姿は佐賀市の金立小学校で開かれていた平和を学ぶ集会にあった。児童を前に、被爆した時の体験をありのままに伝えた。

児童:
わたしは右近さんの話を聴いて原爆の恐ろしさを知り、戦争が良くないことだというのが改めてわかりました

守さんは若い世代に、家族を死なせ、引き裂いた戦争を伝えることが自分の役目だと強く思っている。

戦場からの「父の手紙」

野中愛子さん:
戦場の露として消えるのは軍人の本懐なれども、おしゃべりの愛子さんを頼む。これがぐっときますね

佐賀市の野中愛子さん(84)
佐賀市の野中愛子さん(84)

戦場から送ってきた父の手紙を読む、佐賀市の野中愛子さん(84)。愛子さんが3歳の時、父・満岡孫六さんは南方のニューギニア戦線で戦死した。31歳だった。

野中愛子さん:
「食べ物が来なくて餓死したみたいですよ」ということを聞いて、それで余計悲しくなった。母は泣いていましたよ。おじいちゃんの前では泣けないから裏でね、泣いていましたよ。そういう姿を見せてはいけない時代でしょ。戦死したら万歳、万歳の感じ、その時代は

追い打ちかけた“母との別れ”

父の顔を、愛子さんは写真でしか見たことがない。父の戦死に追い打ちをかけたのが、母との別れだった。

野中さんと母の写真
野中さんと母の写真

野中愛子さん:
母は、「あなたはまだ若いから」といって出された。「実家に帰って自分の人生を生きてください」と祖父が言った。わたしは母について行きたい。しかし、祖父にしてみればわたしは初孫でかわいい。母と別れないといけなくなって一晩泣き明かして。母と別れたのが一番つらかったですね

当時、若くして夫が戦死した場合、妻は夫の兄弟や別の男性と再婚することはめずらしくなかった。

野中愛子さん:
(母は)男の子1人、女の子2人の3人の子どもがいるところに再婚した。わたしより2つ上の男の子がいたから、「将来わたしと結婚させたら一緒に住める」という条件で再婚したと思う

愛子さんは、母の再婚相手の息子とは結婚しなかったため、その後、母とも一緒に暮らすことはなかった。母・杉子さんが父・孫六さんと結婚した19歳の時、書き残した言葉に今も思いをはせる。

母・杉子さんが書き残した言葉
母・杉子さんが書き残した言葉

野中愛子さん:
「どうぞよき夫であってくれますように、そして私もよき妻であらんと心掛く」と書いてある…

消えない悲しみ…戦争への嫌悪

戦後78年たった今も、家族を引き裂いた戦争には悲しみや嫌悪を感じる。

「戦争はいや」と話す野中さん
「戦争はいや」と話す野中さん

野中愛子さん:
いまだに、戦争がなかったら母と父と暮らせたなと思うと…。悲しいのは残された家族とか戦死したりした人の家族が一番悲しい。「戦争はいや」、いつも思うけど、終わらないですね戦争は昔から

(サガテレビ)

サガテレビ
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