終戦から2023年で78年。1987年から16年間、福井県知事を務めた栗田幸雄さん(93)は、軍国教育を受け、1,500人以上が犠牲になった福井空襲を体験した。「戦争はまさに愚劣」と語気を強め、戦争を知らない世代に対して「戦争体験を伝えることが私の義務」と語った。

我慢と空腹は当たり前

栗田さんは、1930年に福井・旧鯖江町に生まれた。東京大学法学部を卒業後、1955年に旧自治省に入省し、その後福井県の副知事を経て、1987年の知事選で初当選した。4期16年間、福井のかじ取りを担い、2003年に退任した。

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今も週に数回ラジオ体操に歩いて通い、国際親善や高齢者の交流事業などを精力的にこなしている。福井の発展に生涯を捧げる栗田さんだが、15歳の8月15日までは戦争とともに生きた。

元福井県知事・栗田幸雄さん:
小学生の時に戦争が始まった。一致団結して戦争を勝ち抜かねばならないという気持ちで毎日暮らしていましたね

栗田さんの幼少期はまさに戦争一色だった。「撃ちてし止まん」「贅沢(ぜいたく)は敵」といったスローガンがあふれ、我慢と空腹は当然のことと受け入れていた。対米開戦から2年後の1943年に、現在の藤島高校(福井市)にあたる旧制・福井中学校に入学した。校内には軍隊式の教育が浸透していた。

元福井県知事・栗田幸雄さん:
中学生でも上級生には必ず敬礼をしなさいと教えられた。誰が上級生か分からないので、すれ違う人には必ず敬礼していた。食糧事情は、戦争が始まってからどんどん悪くなった。ご飯の代わりにサツマイモを食べるとか、他のものを混ぜて食べる量を増やしたりしていた

「お国のために」と中学2年生の時、軍人のエリート養成機関「陸軍幼年学校」を受験したが、全国の秀才に勝てず不合格となった。戦況が厳しくなった1944年からは授業が全てなくなり、中学3年生の時には福井市内のプロペラ工場での勤務(学徒動員)を命じられた。

元福井県知事・栗田幸雄さん:
この戦争を勝つためには軍需工場に行って働く。戦争勝利が最終の目的だと思っていた。行きたくないという気持ちは全くありませんでしたね

真っ赤に燃えていた…81分間の爆撃

1945年7月19日は、父親に軍隊への召集がかかったため、福井市の工場勤務を休んだ。その日の深夜11時ごろ、県内に突如、不気味な空襲警報が鳴り響いた。その直後、福井市を標的とした81分間の爆撃が始まった。

元福井県知事・栗田幸雄さん:
(鯖江市の)西山公園に避難して、福井市のほうを見たら真っ赤に焼けていて…。これはえらいことになったと。「鯖江にも空襲があるのでは…」と心配な気持ちになった

福井空襲では、女性や子供など1,576人が犠牲となった。10万発以上の焼夷(しょうい)弾が投下され、市街地にあった住宅の9割が全壊した。夜が明け、栗田さんはすぐに福井市に向かった。

元福井県知事・栗田幸雄さん:
焼夷弾の直撃を受けて亡くなった友人がいる。逃げ遅れ、焼け死んだ死体がゴロゴロとあって…。空襲は大変なことだと身を持って体験した

「戦争は絶対に避けるべき」

空襲から約1カ月後に日本は敗戦を迎える。1945年8月15日、当時15歳の栗田さんは「重大な放送がある」と聞かされ、ラジオに耳を傾けていた。

元福井県知事・栗田幸雄さん:
天皇陛下のお言葉(玉音放送)は全く分からなかった。夕方になったら、日本は負けたらしいということがあちこちから入ってきて、ビックリしましたね。(日本が)勝つものだと信じていた。最初「われわれは殺されてしまうのでは…」そういう心配をしていた。アメリカの言うことを聞けば殺されることはないと分かって、ほっとした

敗戦から78年となり、戦争は遠い過去の出来事で、平和な日常は空気のように当たり前のものとなっている。ただ、海外に目を向けると、いまだ戦争や紛争はなくならず、大勢の死者が出ている。戦争を知らない私たちに栗田さんはメッセージを残した。

元福井県知事・栗田幸雄さん:
戦後、何十年も戦争がなかったのは幸せだったと思わざるを得ない。戦争というのはいかに愚劣か、それを我慢のもとに強いられた。戦争を知らない人たちに、戦争は絶対に避けなければならないと訴え続けることが、戦争を体験した私たちの義務だと思う

(福井テレビ)

福井テレビ
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