1999年に起きた志賀原発の重大事故を北陸電力が8年間隠していたことを覚えているだろうか。北陸電力は事故があった日を「安全と公正・誠実を誓う日」と定めた。いったい、なぜ今、このような「負の記憶」を持ち出したのか。取材した。
「決して風化させてはいけない」気を引き締める北陸電力社長
北陸電力 松田光司社長:
志賀原子力発電所で過去に起きた当社の苦い歴史を皆さんで今一度振り返り、全員で未来に向けて今後の安全と公正、誠実を誓う日としたいと思います。
志賀原子力発電所で行われた式典。原子力本部の管理職を中心に約50人が参加した。
この記事の画像(16枚)北陸電力は1999年、志賀原発1号機で臨界事故という重大な事故を発生させてしまった。しかし北陸電力はこの事故について国にも報告せず、約8年間もの間、その事実を隠していたのだ。2007年の公表当時、営業部の課長だった松田社長は、再発防止対策委員会のメンバーに加わり発電所の職員へ聞き取りを行った経験がある。
松田社長:
あれから15年以上の年月が経過しました。ややもすると我々のその時の思いが遠くなる。事故の公表以降に入社した社員も相当な数になっています。しかしあの時のことは決して組織として風化させてはいけないことなのであります。
「お天道様は見ている」銅鑼を鳴らして記憶を呼び起こす
北陸電力は今年から事故があった6月18日を「安全と公正、誠実を誓う日」と定めた。事務所の一角に設けられた資料エリアには公表した当時の新聞記事などが展示されている。さらに中央に設置した銅鑼には松田社長の特別な思いが込められている。
松田社長:
隠さない意識を常に持ち続けられるようお天道様は見ているという戒めを込め、この仰天不愧という言葉を自ら揮毫させていただきました。
北陸電力は毎年事故があった日に式典を開き、教訓を語り継ぐことにした。
8年間隠ぺいされた国内初の臨界事故
北陸電力が起こした臨界事故とは一体どんなもので、北陸電力はなぜ隠したのか。改めて振り返る。
北陸電力 松波副社長(当時):
誠に申し訳ございませんでした。
2007年3月、北陸電力が謝罪会見を開いた。8年間隠し続けた臨界事故に対する謝罪のためだった。
原子力発電はウラン燃料が核分裂を起こし、その熱によって発生した水蒸気でタービンを回して発電する。放っておけば核分裂は次々と起こるが、発電所では制御棒を用いて核分裂反応が一定に保たれるよう制御している。
しかし、この日は違った。作業員の連絡ミスなどで、定期点検中の志賀原発1号機で制御棒3本が抜け落ちた。
その結果、意図せずウラン燃料の核分裂が次々と始まった。これが北陸電力が隠し続けた臨界事故だ。当時、非常点検装置は作動せず手動操作に切り替えて15分後に事態は収束した。幸い大事故につながることはなかった。
報告事項「なし」北陸電力が犯した不作為の罪
その日の業務日誌に書かれていた報告事項は「なし」。当時の所長はそう判断したのだ。
甘利明経済産業大臣(当時):
極めて遺憾だと思います。だって報告しなければならないことになっているんですからね。報告しなきゃならないとなっていることを報告していないことについて、何の言い訳も通らないと思います。
北陸電力が国内初の臨界事故を隠したその3カ月後、茨城県東海村のJCOで臨界事故が起きた。この事故で2人が死亡し、600人以上が被曝した。
記者:
公表して原因究明していればJCO事故も防げたかもしれない?
甘利経産相(当時):
そういう思いもあります。
再稼働を目指す北陸電力に原発を運転する資格はあるのか
北陸電力は臨界事故を隠した理由について「言いたいことが言えない」企業の体質を上げた。
能登原発差し止め訴訟原告団:
作業手順が間違っていたで済むんですか。私たちの命、生活が。
北陸電力 当時の社員:
謝っただけで済むものとは思っていません。
能登原発差し止め訴訟原告団 多名賀哲也事務局長(当時):
もし現場の一所長の判断でそんな重大な決断ができるような会社だったら一体どうなんですか。もうすでに北陸電力が原発を運転する資格はない。そんな会社の体をなしていないということでしょう。
実は、臨界事故発生の2カ月後、志賀原発2号機の着工が予定されていた。このため、原発の臨界事故があった事を公表すれば、安全性が疑われ着工が遅れるのではないか。そうした浅ましい考えが臨界事故を隠した理由の一つだったと見られている。
北陸電力は再発防止策の一つとしてこれまで富山の本店にあった原子力本部を志賀町に移転し、責任者である原子力本部長が常駐することにしている。掲げたのは「隠さない企業風土作り」だ。臨界事故から24年。志賀原発の再稼働を目指す北陸電力にとって決して忘れてはならない教訓だ。
(石川テレビ)