43人が犠牲になった、1991年の雲仙普賢岳の火砕流惨事を教訓として伝え続けたいと、雲仙岳災害記念館の館長が2001年に出版した本に、復興の歩みを加えた改訂版を自費出版した。災害で同志を失い、30年以上住民とともに復興への歩みを見つめてきた彼が、本を通して訴えかけたいことを取材した。

6月3日は「いのりの日」

雲仙岳災害記念館館長の杉本伸一さん、72歳(※2023年5月取材当時)。この日杉本さんは、長崎・南島原市深江町の大野木場小学校を訪れた。

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雲仙岳災害記念館館長・杉本伸一さん:
ぜひ語り継いでもらいたいなと思います。そうすることで私と同じように涙を流さなくていいように

雲仙普賢岳で大火砕流が起きた6月3日の「いのりの日」に、雲仙岳災害記念館で灯す慰霊のろうそく作りの意味を子供たちに考えてもらい、一緒に作業にあたるためだ。

「わー!それ噴火や、本当にすごい」
「わー!それ噴火や、本当にすごい」

雲仙岳災害記念館館長・杉本伸一さん:
わー!それ噴火や、本当にすごい

大野木場小学校は、噴火災害で元の校舎が被災していて、災害の教訓は折に触れて、子供たちに伝え続けられている。子供たちは32年前に自分たちの町で何が起きたのかを改めて学び、ろうそくに思い思いの絵やメッセージを描いていく。

「復興に向けた住民の歩み」を残す

杉本さんは、災害当時は島原市の職員で最も被害が大きかった安中地区の公民館に勤務していた。火砕流の犠牲となった43人の中には、杉本さんが災害当時一緒に防災対策に当たっていた消防団員も数多く含まれている。

2001年5月の杉本さん 島原市上木場にて
2001年5月の杉本さん 島原市上木場にて

雲仙岳災害記念館館長・杉本伸一さん:
6月3日が原点。消防団が亡くなったこの場所が原点

災害から10年後の2001年、杉本さんは「今だから書けることもある」「事実をつぶさに公表しよう」と住民から聞き取ったり、自分が体験したことをまとめ自費出版した。突然襲いかかってきた噴火災害に、安中地区の住民がどのように対応したかをつづった「雲仙普賢岳噴火 住民の証言と記録~そのとき何が~」。

あれから20年以上が過ぎ、杉本さんは地域の復興に向けた住民の歩みを新たに第3章として、加えて再び自費出版することにした。

雲仙岳災害記念館館長・杉本伸一さん:
災害から10年目に自費出版したが、まだ復興も何もできていない時だった。その後みなさんで力を合わせて今の島原がある。復興の歩みもちゃんと記録を残しておかないと、本当の意味での雲仙普賢岳の災害というのは語れないのではないか

普賢岳噴火災害で火砕流のほか度重なる土石流で数多くの住宅や田畑が土砂に埋め尽くされ大きな被害を受けた島原市安中地区。復興再建のため、土地全体を平均で6メートル盛り土するかさ上げ事業が行われた。被災していない建物も取り壊すことを余儀なくされ、それは一部の場所を除いて被災前の故郷の名残をほとんど消し去り、新しい町に生まれ変わることを意味していた。

「地区全体を埋めれば、道路は区画整理され、その上に新築の見慣れぬ家が立ち並ぶ。幼い頃から遊び親しんだ路地は消え、それでもふるさとと呼べるのか。」

増補改訂版『雲仙普賢岳噴火 住民の証言と記録 そのとき何が』より

杉本さんのこうした疑問に、住民の一人は「人の絆が残る限りそれは紛れもなくふるさとですよ」と、自分に言い聞かせるように語ったという。

「思いをちゃんと伝えていく必要がある」

雲仙普賢岳の火砕流惨事から9年がたった2000年6月3日。

祈りの日精霊船実行委員会・上田実男委員長(当時):
この雨は亡くなった彼らのありがとうという涙雨だと思っている。

島原では、初盆の年の8月15日夜、独特の切子トーローで飾り付けた精霊船で、死者の霊を送る。しかし1991年8月はまだ災害の真っただ中で、被災者は先も見えないまま避難生活を強いられていた。

精霊船の行事は自粛されたため、関係者の思いは9年ぶりの初盆。

犠牲となった消防団員全員の御霊を乗せた精霊舟が上木場から安徳海岸の慰霊碑まで7.2kmを力強く進んだ。

杉本さんは2020年、いのりの日を前にした被災地の清掃で、久しぶりに地元の造園家・宮本秀利さんと出会う。噴火災害直後から災害ボランティアとして活動してきた宮本さんとは、その後全国各地の他の被災地に一緒に視察や支援に向かったこともある。
宮本さんは被災地全体を公園化し、祈りの場としたいという考えを温め続けていた。この日の2人の出会いが災害遺構の整備事業が動き出すきっかけとなった。

「定点の保存整備に向けて二人の思いに火がついた」

増補改訂版『そのとき何が』より

雲仙岳災害記念館館長・杉本伸一さん:
宮本さんがいなかったら保存整備は出来なかったのではないか。まさにここには宮本さんの思いがこめられている。ただ残念ながら宮本さん(2022年、病のため)亡くなってしまった。本当に残念ですが、あの宮本さんの熱い思いを私は引き継いでここで伝えていかなくてはと思う

災害当初、報道関係者が普賢岳に向けてカメラを構えていた場所「定点」。

『マスコミさえあの場所にいなかったら息子や夫の犠牲はなかった』消防団員の遺族に今もくすぶる思いも知りつつ進められた保存整備。

「ここでなぜ事故が起きたのか、これだけの人が亡くなったのか、それぞれの立場で考えてほしいと思います。そういうものをみんなで共有することによって死を無駄にしない、未来につなげることができるのではないかと思います」

増補改訂版『そのとき何が』より

毎年6月3日には、島原市上木場地区を遺族や関係者が訪れて手を合わせている。地元では沿道の草を払い、2023年もいのりの日を前に行われた被災地の清掃に杉本さんの姿があった。

雲仙岳災害記念館館長・杉本伸一さん:
いろんな人の思いがあった。いろんな思いを伝えながら、島原に住んでいる人たち住み続けている人たちの思いをちゃんと伝えていく必要がある

「人の思いがものを作って行く」と語る杉本さん。災害があっても人はなぜそこに住み続けるのか、この本を通して訴えかけている。

『改訂版文庫「そのとき何が」』(税別1部1,500円)購入希望の場合は著者に問い合わせを。
(島原市南崩山町丁2420-70 090-7399-7708)

(テレビ長崎)

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