今回の書評は『日本の古代豪族 100』(水谷千秋 著・講談社)である。

帯には「『読む事典』の決定版」とある。新書版とはいえ約500のページ数は相当なボリューム感があり、しかも読んでいて飽きない構成になっている。一豪族に数ページを使ってその歴史、人物が簡潔に語られているが、だからと言って、もちろん豪族の「スペック」を羅列しただけの内容ではない。

巻頭の「概説――古代豪族とは何か」だけでも興味深い研究が紹介され、知識を整理するのにかなり役立つだろう。

史実と神話が相半ばする時代の豪族

こういう叙述がある。

「『日本書紀』で最初に見える豪族(氏族)の名前は、出雲臣(いずものおみ)、土師連(はじのむらじ)、次いで凡川内(凡河内)直(おおしこうちのあたい)、山代(やましろ)直である。…中略…これらは皆、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい)によって生まれた神であった」

つまり、豪族は『日本書紀』によって“神認定”されているのだ。それも大王(おおきみ)家の開祖というべき天照大神から生まれた神ということが、正統の国史というべき『日本書紀』によって担保されているのである。

これは大王家と豪族の関係をよく表している。むろん、君と臣という身分差ははっきりしていたろうが、天皇が大王と呼ばれていた時代は、大王家は突出した権力を持った存在ではなく、多くの豪族との相互依存の関係を切り結んでいたのである。

たとえば、『日本書紀』の雄略天皇即位前紀によれば、当時の有力豪族、葛城氏の族長・円大臣(つぶらのおおおみ)は大王家と武力衝突を起こしている。つまり豪族は場合によっては天皇家に武力で立ち向かうこともあったのである。

さて、この葛城氏の祖・襲津彦(そつひこ)は、天皇の命によって新羅征討で朝鮮半島に派遣された折、現地の美女にうつつを抜かし、助けるべき加羅(から)を逆に攻撃したという。天皇の命を聞かず、自分の意のままに行動する豪胆な人物かと思いきや、実はそうでもなく、その後、密かに帰国して恐縮のあまり石穴に入って死んだとされている。

豪放なのか小心なのかよくわからない人物である。それゆえにこの人は伝承上の存在で、特定の一人の人物ではないと、その実在を疑う説があるようだ。確かにこの矛盾した人格は、後日の歴史叙述に翻弄された可能性は十分に考えられる。

このように、史実と神話が相半ばする時代の豪族たちは、やがて天智・天武の両天皇によって推し進められた律令国家構想によって、その独立性を奪われ、見返りとして位階制による貴族官僚として律令国家に組み込まれていく。

物部氏と大伴氏

さて、この本で取り上げられた100の豪族のうち、軍事豪族で名高い、物部(もののべ)氏と大伴(おおとも)氏を見てみよう。

物部氏の「もの」の由来は「もののふ」(武人・武者)と「もののけ」(物の怪・霊魂)の二説があるが、代々「石上神宮」(いそのがみじんぐう)の祭祀にあたっていたこともあり、後者もなかなか有力である。実際、物部氏はのちに「石上氏」と氏を改めている。

石上神宮(奈良・天理市)
石上神宮(奈良・天理市)
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物部氏は饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖とする。饒速日命は天磐船(あまのいわふね)に乗って青き山並みが囲う「東方の美き地」に飛び降りたという。その話を聞いた神武天皇がそれに触発されて、日向の高千穂からその地に向かおうとする。神武の東征である。

神武天皇が大和に入ろうとすると、それを邪魔したのが長髄彦(ながすねひこ)である。この人物は饒速日命を崇拝し、妹を嫁として差し出すほど入れ込んでいた。ところが饒速日命は、神武が長髄彦の軍を打ち破ると、一転して神武に恭順の意を示し、そればかりか長髄彦を殺害して忠誠を誓ったのだった。

かなり酷い裏切りではあるが、これを現代の正義感でもって古代のそれを非難するのは意味のあることではない。ただ、読んでいて「書紀」編纂者にある種、屈折したものを感じるのである。それがために、研究者の中には物部氏は天皇家と対等とする伝承を持っていて、その元来の伝承は天皇家に対して「もっと傲然たるものであったろう」と考える人もいるらしい。

さらに、壬申の乱で最後まで大友皇子(おおとものみこ)のそばにいたが、結局、皇子が自殺したのち、その首を大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)に差し出した石上(物部)朝臣麻呂(いそのかみのあそんまろ)の行動が引き写されているとする研究もある。

その後、物部氏は大連(おおむらじ:大臣とともに朝廷の最高執政官)として軍事面で重きをなすが、その後、仏教受容をめぐって大臣である蘇我氏と鋭く対立する。しかし、結局は蘇我氏や厩戸皇子(うまやどのみこ・後の聖徳太子)を中心とする仏教受容派との軍事衝突に敗れ、物部守屋(もののべのもりや)一族は壊滅した。その後、物部氏は天武天皇の時代に「石上朝臣」と氏を改め、名門・物部の名は歴史から消えることになる。

もう一方の軍事豪族の雄、大伴氏。その遠祖は天忍日命(あまのおしひのみこと)である。天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際、その先導役を務めたというのだから、この一族も神話上かなり古い豪族だ。

面白いのは、物部氏と同じように神武天皇が大和盆地を制圧する際のエピソードである。先の長髄彦との戦いに苦戦するさなかに天照大神から頭八咫烏(やたのからす)がもたらされ、そのカラスが道案内をして山を越えていく際に先導役を務めたのも、また日臣命(ひのおみ・天忍日命)だとしている。

先の天孫降臨といい、どうも大伴氏は天皇の先導役・エスコート役、さらにいえば親衛隊的な存在だったことを強く示唆している。そう考えると、同じ長髄彦との戦いで敵方にいた物部氏とその立場は正反対だったことになる。普通に考えて、敵方を裏切って帰順してきた物部氏より天孫降臨以来の大伴氏を優遇してもよさそうなものだが、そうでもなさそうである。あるいは経済力や軍事力という意味では、物部氏の方にかなり分があったのかもしれない。

大伴氏の絶頂期といえるのは、大伴大連金村の時代である。彼は応神天皇の五世という当時の天皇からかなり血筋の離れた越前在住の王子を、継体天皇として推戴するという離れ業をやってのけ、その権勢を見せつけた。しかしその後、朝鮮半島経営の失政を物部大連尾輿らに糾弾され、政治の世界から退いた。大伴氏の大連の地位はここで途絶え、蘇我氏の下僚的地位に甘んずることになる。

以降は、大伴旅人、その息子の大伴家持といった万葉歌人を輩出するほどまで文民化した。とはいうものの、家持は持節征東将軍にも任じられているので、軍門の気風はまだ残っていたのだろう。

その後、淳和天皇の諱(いみな)が大伴だったため、大伴氏は「大」を外し伴氏に改名した。

大伴家持像(富山・高岡市)
大伴家持像(富山・高岡市)

さて、このように見ていくと、全体を流れる歴史叙述から豪族を切り離すと、また違った視点が得られるのがよくわかる。歴史に対する見方が立体的になる。

そういった意味でこの本は貴重であるが、さらに加えて、新刊書籍ではないが、『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか 』(笠原英彦 著・中央公論新社)、『藤原氏―権力中枢の一族 』(倉本一宏 著・中央公論新社)も合わせてレファレンス・ブックとして揃えておきたい。これら3冊を傍らに置いて日本の古代史の通史を読めば、おそらく日本古代史の理解はさらに深まること、間違いない。

【執筆:赤井三尋(作家)】

『日本の古代豪族 100』(水谷千秋 著・講談社)

『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』(笠原英彦 著・中央公論新社)

『藤原氏―権力中枢の一族 』(倉本一宏 著・中央公論新社)

赤井三尋
赤井三尋

本名・網昭弘 早稲田大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送に入社。2003年『翳りゆく夏』で第49回江戸川乱歩賞受賞。2006年フジテレビジョン報道局へ転籍。
【著書】
『翳りゆく夏』( 講談社文庫)
『どこかの街の片隅で』( 単行本・講談社 改題して『花曇り』講談社文庫)
『2022年の影』(単行本・扶桑社 改題して『バベルの末裔』講談社文庫))
『月と詐欺師』( 単行本・講談社 講談社文庫【上・下】)
『ジャズと落語とワン公と 天才!トドロキ教授の事件簿』(単行本・講談社 改題して『面影はこの胸に』講談社文庫)
【テレビドラマ】
翳りゆく夏(2015年1月18日 ~(全5回) WOWOW「連続ドラマW」主演:渡部篤郎)