ノーベル賞の季節がやってきた。

初日の医学生理学賞は、ドイツのマックスプランク進化人類学研究所のスバンテ・ペーボ博士の受賞が決まった。今年は新型コロナ関連の受賞が予想されていた中で、4万年前のネアンデルタール人の骨に残っていた遺伝子情報から我々ホモサピエンスがその遺伝子の一部を受け継いでいたことを突き止め、ネアンデルタール人とホモサピエンスの種が交わっていたことを発見したという、ちょっと意表をつく業績に与えられた。

医学生理学賞といいながら、疾病の治癒には直接的な貢献をしていない。しかし、ダイナミックな着想でロマンがある。遺伝子科学を駆使した研究なので医学生理学賞なのだろうが、これからもこういった「学際的」な研究に与えられることが増えてくるかもしれない。

一方、物理学賞は「量子のもつれ」という不思議な現象を理論や実験で示した3人の研究者が選ばれた。こちらのほうは「量子力学」という、まさに現代物理学の王道を行く分野である。

量子力学は素粒子などの極小の世界を研究する分野だが、突き詰めると意識のある観測者の存在が焦点になってくる。観測中は「物質」で観測しないときは「波」という性質を素粒子は持っている。また、空間や時間もある意味で意識と深いかかわりを持っているらしい。

今回の書評は、その謎に満ちた「時間」と「意識」の関係を探る、『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ 著、冨永星 訳・NHK出版)である。

低地と高地では時間の流れ方が違う?

カルロ・ロヴェッリという人は、あの車椅子の天才宇宙物理学者、故・ホーキング博士の再来と呼ばれているイタリアの物理学者で、ホーキング氏同様、科学エッセイを数多く書いている。この本もそのうちの一冊だ。(最近刊に『世界は「関係」でできている』(NHK出版)がある。量子力学にかかわる書で、タイトル通りの内容である。仏教哲学の「縁起」との関係にも触れられていて、難解だが面白い。いずれこの書評で取り上げるかもしれない)

さて、この本の第1章の1行目にこう記されている。

「簡単な事実から始めよう。時間の流れは、山では速く、低地では遅い」

1行目から衝撃的なことが書かれているが、「セシウム原子時計」と衛星を使って、それはかなり前から実証されている。最近では、東京大学と理化学研究所が島津製作所と共同開発した「光格子時計」で、東京スカイツリーの展望台(地上450m)と地上0mで実証実験したところ、展望台に設置した時計が地上の時計より、24時間につき4.26ナノ秒だけ早く進んだことが確認されている。2020年4月の発表で、これは新聞にも大きく掲載されたので、覚えている人も多いだろう。

ナノとは10億分の1である。評者の計算が正しければ、1年で10億分の1554.9秒(4.26ナノ×365日)、つまり100万分の1.5549秒、100歳の長寿を全うしても、1万分の1.5549秒しか違わない。

この、低地と高地では時間の流れ方に「遅い・早い」がある、という事実は、アインシュタインの一般相対性理論から導かれたもので、重力が時間の流れを遅くしたり速くしたりするのである。

さらに読み進めていくと、時間に関する常識的な考えが次々に覆されていく。

量子力学では、「プランク時間」と呼ばれる“最小の時間”がある。それは、1秒の1億分の1の、10億分の1の、10億分の1の、10億分の1の、さらに10億分の1の長さだという。つまり10のマイナス44乗となる。時間には最小幅があり、その幅をまたいで流れている。決してなめらかに流れているのではない。

東京スカイツリーの天望回廊 実証実験では地上よりも1日あたり4.26ナノ秒、時間の進みが早かった
東京スカイツリーの天望回廊 実証実験では地上よりも1日あたり4.26ナノ秒、時間の進みが早かった
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「エントロピー」で時間の謎を解明

「時間」にかかわる、こういった物理学的な成果を紹介したうえで、著者はいよいよ「時間の謎」の解明に取りかかる。

物理学のすべての方程式は、過去と未来を区別できていない。

過去は確定していて記憶・記録されるのに、未来は未確定で何が起こるかわからない。明らかに過去と未来は違う。ところが物理学の方程式では、過去と未来が対称になっていて非対称になっている過去と未来の区別がついていないのである。

だが、ただ一つだけ時間の非対称を表す数式がある。著者がこの本の中で、一度だけ使った数式である。

「ΔS≧0」

「デルタSは常にゼロより大きいかゼロに等しい」。驚くほどシンプルなこの数式は、「エントロピー」と呼ばれる熱力学の第二法則で、「熱は熱い物体から冷たい物体にしか移らず、決して逆は起こらない」という事実を表現している。 

当たり前のことに思えるこの法則が、時間の謎を解くカギになっているというのは意外感があるが、時間の方向性を示しているのは、この数式だけなのである。そしてこの単純な数式の背後に潜む「時間」の本質に初めて気づいたのが、オーストリア出身の物理学者にして哲学者のルートヴィッヒ・ボルツマンだった。

そもそも「熱」とは固体なら分子、原子の振動、液体や気体ならそれぞれの分子、原子が「勝手」にいろいろな方向に動きまわっている、その運動量のことである。この無秩序で乱雑で混沌とした状態を「エントロピーが高い」と呼ぶ。逆に、秩序だった状態を「エントロピーが低い」という。

たとえば、コップの水の中に、青インクを一滴たらす。すると、しばらくの間、インクは水の中で、一定の位置と体積を保っている。この状態を「エントロピーが低い」という。つまり、水とインクがしっかりと自分の領分を守って、秩序が維持されている。しかし、やがて水とインクは溶け合い、混ざり合って、最後にはごく薄い水色の液体となってそのままとどまる。これが、「エントロピーが高い」状態である。

たしかに、経験則に照らしてみても、ごく薄い水色の液体は、遠心分離機にでもかけない限り(人間の手を加えない限り)、インク成分が再び集まり始めるということは起こりえない。秩序のある状態から無秩序の状態にしか、時間は流れないのである。

手短にエントロピーの概念を説明したあと、著者はさらに、エントロピーにかかわる一つの例をあげる。

26枚のトランプを考える。トランプは、最初から13枚目までをエースからキングのハート、後の13枚を黒のスペードとする一束だ。いうまでもなく、この一束は「エントロピーが低い」状態である。赤と黒のマークがはっきりと分かれているからだ。

次に、そのカードを何回もシャッフルする。くられたカードは赤と黒のカードの順序がバラバラになり、混ざり合い、秩序がなくなって「エントロピーが高い」状態になる……と、誰しもが思う。しかし、視点を変えることで、これを否定することができるのである。

「何回もシャッフルされたカードでも、秩序は必ず守られている」

「????」

誰しもが戸惑うだろうが、著者は次のような鮮やかな答えを用意していたのである。

1枚のカードの特徴は、そこに印刷されたカードのマークだけではない。カードの表面・裏面にきずのあるものないもの。そのきずの数が偶数か奇数か、あるいは分子レベルまで観測して、カードの分子数は奇数か偶数か……1枚のカードで無限の属性があるのだ。

だから、どんなにカードをくっても、何かの属性に着目すると、必ず秩序は守られている。視点を変えれば、いつまでも「エントロピーが低い」状態のままである。つまり、時間は流れていない。

ここで、最初に立ち返ってみよう。

ハートとスペードに着目したのは、人間の意識である。もちろん、スーツ(トランプに書かれているハートなどのマーク)にトランプの占いや遊戯としての意味や価値があるので当然なのだが、カードや宇宙の立場に立ってみれば、そんなことはどうでもよく、知ったことではない。一方、分子・原子レベル、さらに素粒子は宇宙にとってみれば、たぶん本質的だ。ところが、人間はそんな微小な世界を見ることができないので、まったく意味がない。

著者は、この人間の特徴を「目が粗い」と表現する。

そして、この「目の粗さ」こそが、人間をして「時間がある」と錯覚させる原因だとするのである。「意識」と「時間」が紐づけされた瞬間で、結論として、まさにこの本のタイトルどおり、宇宙には『時間は存在しない』というわけだ。

「『時間とは、人間の生み出すものだと、物理学者が言ったらどう思います?』(円城塔氏推薦)」とは、この本のキャッチコピーだ。そしてまさにその通りの内容なのである。

【執筆:赤井三尋(作家)】

『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ 著、富永星 訳・NHK出版)

赤井三尋
赤井三尋

本名・網昭弘 早稲田大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送に入社。2003年『翳りゆく夏』で第49回江戸川乱歩賞受賞。2006年フジテレビジョン報道局へ転籍。
【著書】
『翳りゆく夏』( 講談社文庫)
『どこかの街の片隅で』( 単行本・講談社 改題して『花曇り』講談社文庫)
『2022年の影』(単行本・扶桑社 改題して『バベルの末裔』講談社文庫))
『月と詐欺師』( 単行本・講談社 講談社文庫【上・下】)
『ジャズと落語とワン公と 天才!トドロキ教授の事件簿』(単行本・講談社 改題して『面影はこの胸に』講談社文庫)
【テレビドラマ】
翳りゆく夏(2015年1月18日 ~(全5回) WOWOW「連続ドラマW」主演:渡部篤郎)