新潟県燕市と長岡市を流れる大河津分水が、通水から100年を迎えた。水害から地域を守り続けてきた大河津分水。これまで果たしてきた役割とは…。

水害を防ぐだけでなく“地域発展のシンボル”に

8月25日、燕市で大河津分水の通水100年を記念したイベントが開かれた。

(8月25日 新潟県燕市)
(8月25日 新潟県燕市)
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燕市と長岡市を流れる大河津分水は1922年8月25日に通水。この日は100年前の通水した瞬間を再現して、可動堰のゲートが参加者の目の前で開かれた。

通水した瞬間を再現して開かれた可動堰のゲート
通水した瞬間を再現して開かれた可動堰のゲート

参加者:
勢いがすごくてびっくりした

参加者:
農業県なので、水の調整をよくして豊作がずっと続くようにしていただきたい

記者リポート:
全国一の水量を誇る信濃川。そこから枝分かれするように流れているのが大河津分水です。これが100年前に人の手で造られたということで、大きな工事だったことが伺えます

全長約10kmにも及ぶ人工河川
全長約10kmにも及ぶ人工河川

信濃川の上流から見て、左側を流れるのが大河津分水。全長約10kmにも及ぶ人工河川だが、一体なぜ造られたのだろうか?

信濃川河川事務所 今井誠 所長:
3年に1回、信濃川など大きな河川の堤防が決壊して洪水が起こるという、洪水の常襲地帯だった

明治時代まで水害が多く発生していた越後平野。1896年の「横田切れ」と呼ばれる水害では平野のほぼ全域が浸水し、大きな被害が出た。

そこで信濃川の水を一部、日本海に流すために造られたのが大河津分水。1909年に本格的な工事が始まり、1922年に通水すると水害は大きく減ったという。

信濃川河川事務所 今井誠 所長:
大河津分水路が通水したあと、この越後平野が大穀倉地帯へと生まれ変わっている。新幹線や高速道路がこれまで洪水が起きていたところに整備され、また新潟の市街地の土地利用の高度化なども進んだ。新潟の発展は大河津分水路なくしては語れないと思う

大河津分水では現在、上流から流れてくる水量に応じてゲートを開閉。一方、激甚化している気象災害に対応するため、河口の拡幅工事など「令和の大改修」が進められている。

信濃川河川事務所 今井誠 所長:
大河津分水路は洪水の対応だったり、地域の発展のシンボルだと思っている。この大河津分水路をシンボルとして、みんなで地域の発展を考えていきたい

多くの人の願いと力を結集して造られた大河津分水は、これからも私たちの生活を守り続ける。

(NST新潟総合テレビ)

NST新潟総合テレビ
NST新潟総合テレビ

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