特定危険指定暴力団「工藤会」のトップ2人に死刑判決などが言い渡されてから、8月24日で1年。元福岡県警の捜査員が死刑判決の衝撃、そして知られざる工藤会の内幕を語った。

工藤会と草野一家の抗争 逮捕した”会長”の印象

福岡県警元捜査員 A氏:
恐らくほとんどの組員は「工藤会は解散しない」と。工藤会が衰微していったということは、昔は考えられなった

特定危険指定暴力団「工藤会」の弱体化に驚くのは、福岡県警の元捜査員A(76歳)。40年に渡る警察官人生のほぼ全てを暴力団捜査一筋で歩んだ人物だ。A氏がいわゆる“マル暴”担当になったのは1970年代。当時、特に緊張状態にあったのが北九州地区だった。

1970年代から“マル暴”担当
1970年代から“マル暴”担当
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1981年2月のニュース報道:
現在、北九州市にある暴力団は42団体640人。これがそれぞれ山口組系、反山口組系に分かれて抗争事件を繰り返し、両派の争いは次第にエスカレートしております

当時、北九州市にあった暴力団は42団体640人 山口組系と反山口組系が抗争事件を繰り返していた
当時、北九州市にあった暴力団は42団体640人 山口組系と反山口組系が抗争事件を繰り返していた

当時、小倉の街は工藤会と新興勢力・草野一家が対立関係にあった。1979年10月、草野一家「極政会」の溝下秀男会長が、工藤会の中核団体「田中組」から襲撃されたことを契機に、いわゆる北九州戦争が勃発する。その2カ月後…。

対立関係にあった2つの組織 1979年10月「北九州戦争」が勃発
対立関係にあった2つの組織 1979年10月「北九州戦争」が勃発

福岡県警担当者の会見:
工藤会田中組組長、田中新太郎、年齢39歳。3発が命中して即死の状態

1979年12月、工藤会・田中組の田中新太郎組長が草野一家・極政会によって射殺される事件が発生。両者の争いは泥沼化した。その抗争の最中、A氏は極政会の溝下秀男会長と初めて出会い、取り調べにあたったと話す。

テレビ西日本 取材担当者
溝下秀男氏との出会いは?

福岡県警元捜査員 A氏:
田中新太郎事件の翌月、1980年1月に溝下を折尾署で逮捕した。若い者に対する暴行事件だと思う。溝下の取り調べをした

草野一家・極政会の溝下秀男会長との出会いを振り返る
草野一家・極政会の溝下秀男会長との出会いを振り返る

テレビ西日本 取材担当者
最初の印象は?

福岡県警元捜査員 A氏:
世間で言われていた噂の男とは違っていた。聞いていた溝下の印象は、調べにならないと。徹底的に抵抗すると。しかし初対面から、理由は分りませんけど調べに応じて。事件も認めるし、私に対する態度も素直な態度だし。自己紹介をして、あとは俺(A氏)が調べると。(溝下が)「あんたな?分かった」ということで、スムーズに調べに入っていけた

草野一家・極政会の溝下秀男会長は、取り調べに素直に応じ事件を認めた
草野一家・極政会の溝下秀男会長は、取り調べに素直に応じ事件を認めた

テレビ西日本 取材担当者
ちなみにその事件で溝下氏は懲役に?

福岡県警元捜査員 A氏:
行きました

その後、刑務所から出所した溝下氏は草野一家のナンバー2の座につく。A氏は捜査のため溝下氏と会うようになった。

福岡県警元捜査員 A氏:
溝下は組織の中枢に座ったわけですからね、それから会うこともたくさんあった。もちろん(私の)上司に言われて。事務所に行ったり警察署に呼んだり。情報収集と実態把握。(溝下は)礼儀正しかった。ある程度、心は開いていたと思いますし、悪いことをしているのは分りますけど

福岡県警元捜査員 A氏:
我々が刑事として育った時代はちょうど時代の終わりの頃で、現場の刑事は捕まえるのが仕事。それと同じように自分の管内のヤクザをいかにしつけをするか、いかに何かあった時に抑えきるか。少しでも(悪事を)させないようにするか。現場の刑事の大事な務めと自分は思っていた

「北九州を一つに」溝下氏の構想は現実に

1981年2月、工藤会と草野一家の抗争は、稲川会などが仲裁に入り和解が成立。しかし、その後も北九州地区では暴力団同士の争いが続く。この状況に危機感を抱いていた溝下氏は、A氏にある構想を打ち明けた。その構想こそが後の特定危険指定暴力団「工藤会」だった。

福岡県警元捜査員 A氏:
昭和57年(1982年)ごろ、溝下が私に言ったことは「将来、暴力団対策法みたいなのができる」ということ。実際に平成4年(1992年)に暴力団対策法ができるが、その10年くらい前から、こういう法律ができるだろうと見越していた。溝下としては、北九州をひとつにする目的があった

「北九州を一つにまとめて他所の敵を置かない」という溝下氏の構想は現実になった。1987年、草野一家と工藤会は統合し「工藤連合草野一家」が結成されたのだ。

福岡県警元捜査員 A氏:
私の知ってる限り、田中新太郎組長を殺した後に、溝下を殺すと言っていた工藤会関係者がたくさんいた。それが何年かの間にひとつになって。(溝下氏に対して)全員が完全に抵抗できないというか、そういう気持ちしか感じられなくなった

テレビ西日本 取材担当者
殺すと言っていたヤクザが従服した?

福岡県警元捜査員 A氏:
そうですね。溝下のカリスマが強かったということでしょね

溝下秀男氏には「殺す」と敵視していた工藤会関係者らも従服
溝下秀男氏には「殺す」と敵視していた工藤会関係者らも従服

新組織結成から3年後、溝下氏は工藤連合草野一家の二代目総長に昇りつめる。この時、溝下氏と親子の盃を交わし組織ナンバー2になったのが、当時「三代目田中組」組長だった野村悟被告だった。

テレビ西日本 取材担当者
野村被告から見ると、溝下氏は自分のかつての親分である田中新太郎氏を殺害した組の当時のトップ。これは複雑な関係じゃないですか?

福岡県警元捜査員 A氏:
それは私も疑問に思ったことがあるけど、本人(溝下氏)は「それは野村とも話をして納得して“子”になった」と言っていた

福岡県警元捜査員 A氏:
野村自身は田中新太郎から直接、盃をもらってないはず。“枝の子”(三次団体の組員)ですから。そういうことで溝下も、(田中新太郎は)親じゃないという野村の話を信じたのではないか。私が見る限り野村は溝下に心酔をしていた。その言葉遣い、態度、本当にこの人には逆らってはいけない。やっぱり勝てないと思ったのではないですかね

恐怖で組を支配した野村被告 企業などを襲撃

そして、野村被告は組織内での足元を固めていく。その傍らで野村被告は1998年、港の公共工事への介入を断った元漁協組合長を配下に命じて射殺した。

1999年、工藤連合草野一家は「工藤会」に改称。三代目会長の座には溝下氏がついた。この時期、溝下氏はA氏にこう打ち明けたという。

福岡県警元捜査員 A氏:
「北九州のことは全部、野村に渡した」と。「俺は一切にタッチしてない」と。「まだ野村は会長じゃなかろうもん」と言うと、「もう俺は北九州のことについては野村に全部任せている」と言っていた

テレビ西日本 取材担当者
溝下氏から見て、野村被告のどこが優れていた?

福岡県警元捜査員 A氏:
溝下を支えるということで、彼の信頼を得たということでしょう

2000年、53歳になった溝下氏は健康上の理由から退き、野村被告が四代目工藤会会長に指名された。

四代目会長になった時期に野村被告が作らせたという焼酎がある。黄金色の箱に入った五合ビンには「幻の焼酎・野村」「北九州・小倉」と記されている。

テレビ西日本 取材担当者
溝下秀男という人物はカリスマ性があって、それが組織をまとめあげた。野村悟という人物の力の源泉は何か?

福岡県警元捜査員 A氏:
やっぱり恐怖でしょう

2003年8月、工藤会は暴追運動の先頭に立つ男性が経営するクラブに手榴弾を投げ込む事件を起こす。いわゆる「ぼおるど事件」だ。

記者
北九州市の繁華街の高級クラブに爆発物のようなものが投げ込まれたようです

この事件を皮切りに、工藤会は暴力団排除を打ち出した企業などを次々に襲い始めた。

テレビ西日本 取材担当者
ぼおるど事件で溝下氏から話を聞いた?

福岡県警元捜査員 A氏:
電話で「何であんなことするんか?」と聞いた。そしたら「詳しいことは分らんが閃光弾で、手榴弾じゃないと聞いたことがある」と言っていた。(溝下氏は)本当に手榴弾と思っていなかった口ぶりだった

テレビ西日本 取材担当者
それを本気で溝下氏が言っていた

福岡県警元捜査員 A氏:
うん

テレビ西日本 取材担当者
溝下氏と最後に会ったのは?

福岡県警元捜査員 A氏:
亡くなる何年か前。病状を確認してくれと県警から依頼があって、肝臓を交換して帰って来て動けるようになった時に、ちょっと会おうかと。彼が裸になって傷口を見せてくれて。もう大丈夫と本人は言ってましたけどね。溝下自身の気力は、段々病気が進むことで萎えていったのではないかな。なんかあったときは気力を振り絞っていたでしょうけど。それ以上にどんどん病気が進むので、段々弱くなっていく

溝下氏の死後、野村被告による独裁体制が確立

2008年7月、溝下秀男氏が61歳で死去。葬儀は警察が厳重に警戒するなか行われ、全国各地から暴力団関係者が駆け付けつけた。A氏によると溝下氏の葬儀の数日後、野村被告は田中新太郎氏の墓参りに行ったという。

福岡県警元捜査員 A氏:
まさかとは思っていたが、そういう行動にやっぱり出た。昔の田中組の組員たちを連れて行ったと聞いた

テレビ西日本 取材担当者
田中新太郎氏が殺されたことについて一切恨みを見せなかったが、その心は残っていたと?

福岡県警元捜査員 A氏:
それは目の前の恐怖、大きな溝下の影に全部隠していたんでしょう。段々と弱っていく親分(溝下氏)を見て、少しずつ少しずつ…。亡くなった溝下親分を見た時に、これで完全に俺が北九州の親分だという意識になって、心の奥に沈めていた田中親分の仇を思い出したのではないか。敵討ちの報告という意味もあって、墓参りに行って

テレビ西日本 取材担当者
溝下氏は、死ぬまで自分の後継である野村被告への疑いの心はゼロだった?

福岡県警元捜査員 A氏:
私が会っていた時代に関しては、野村を信用してたと思う。「野村は本当に孝行してくれる」と言ったことがある。本当にこの世から居なくなって、(野村は)それで本当の自分が出た

溝下氏の死後、工藤会では“溝下派”への粛正ともとれる動きが活発になる。溝下氏に近かった篠崎一雄元組長は工藤会によって射殺。また、溝下氏の側近だった江藤允政組長は、引退に追い込まれた後、何者かによって射殺された。

工藤会では“溝下派”への粛正ともとれる動きが活発に
工藤会では“溝下派”への粛正ともとれる動きが活発に

溝下氏が亡くなってから3年後の2011年7月、工藤会五代目継承式が行われた。

工藤会組員たち
押忍!押忍!押忍!

(北九州市小倉北区)
(北九州市小倉北区)

野村被告は64歳で工藤会トップの総裁の座に座り、ナンバー2の会長には腹心の田上不美夫被告が、ナンバー3の理事長には菊地敬吾被告が指名された。工藤会トップ3が全て田中組出身者という野村被告の独裁体制が確立したのだ。

一般市民を狙い殺人も…113件の襲撃事件

工藤会はさらに暴走する。2012年4月、野村被告は配下に指示し福岡県警の元警部を銃撃。

記者:
北九州小倉南区で元警察官の男性が銃撃されました

さらに同じ年、工藤会は暴力団員の立ち入り禁止の標章を掲げた飲食店の関係者を次々に襲う事件も起こした。

捜査関係者によると、野村被告が組織の実権を握った2000年以降、工藤会の犯行とみられる襲撃事件は113件発生。そのうち殺人と殺人未遂事件は28件、発砲事件は46件、放火は17件、爆発物を使用した事件が5件。狙われたのは、ほとんどが一般市民だった。

福岡県警元捜査員 A氏:
北九州には警察以外に敵がいない。それは本来、溝下が昔、考えていたことの実現だろうと思います。対抗勢力がない中で、しかも企業は金を出さない状態になって。どうやって今まで通りにするかというと、もう企業を攻撃するしかない。綿密な計画を立てて組織的にするわけですから、これは非常に検挙が難しい。そのため野村は誤った自信をエスカレートして、何をしても捕まらない。過剰な自信が次々に激しい事件に変わっていったのではないか

テレビ西日本 取材担当者
もし溝下氏が生きていたら?

福岡県警元捜査員 A氏:
溝下が親分のままおれば、街の小さなスナックのママの顔を切ったり、ああいう事件は起きていないと思う。ここまで北九州は変わっていない

事態を重く見た国は、暴力団対策法を改正。工藤会を全国の指定暴力団の中でも特に凶悪な組織として「特定危険指定暴力団」に指定した。

ところが野村被告はこれを顧みず、配下に指示して2013年に個人的な恨みから女性看護師を襲撃。その翌年には利権獲得のため歯科医師を襲撃させた。そしてついに…。

記者:
警察が野村総裁宅に入ります

2014年9月、福岡県警は頂上作戦を開始し、野村被告ら工藤会最高幹部を次々に逮捕した。

2021年8月24日、福岡地裁は4つの市民襲撃事件で野村被告の関与を認定。野村被告に死刑、ナンバー2の田上被告に無期懲役を言い渡した。

「工藤会の解体は若い組員の為にもなる」

判決から1年。A氏は野村被告の死刑判決が工藤会に与えた衝撃についてこう語る。

福岡県警元捜査員 A氏:
みんな心の中でほっとした部分と、恐らく工藤会のほとんどの組員は、もう辞めたいと思っている

テレビ西日本 取材担当者
ほっとしたとは、どういう意味?

福岡県警元捜査員 A氏:
これ以上、指示がないわけですから、人に対する。だけど判決を受けたということであれ、組織を抜けるということは非常に難しいと思う。一度植え付けられた親分に対する恐怖心は、時間が経ってもなかなか拭えない

テレビ西日本 取材担当者
野村被告から逃れられない?

福岡県警元捜査員 A氏:
そうですね。工藤会の壊滅を目指すなら、それが若い組員たちの為にもなると思う。残しおけば、どうしてもその中で縛られる。なんとか壊滅に向けて頑張ってもらいたい

一方、死刑判決から1年となり、野村被告に関する新たな情報が入って来ている。野村被告が7月に弁護方針を巡って自身の弁護人と対立し、全員を解任したという。この影響で控訴審の日程は未だ見通しが立っていない。

暴力団に詳しい専門家に話を聞いたところ、野村被告には弁護人を解任することで控訴趣意書(控訴目的を記した書面)の提出期限を遅らせ、公判を長引かせることや死刑確定、死刑執行を少しでも遅らせようとする思惑があるのではとみられている。

暴排条例が改正されて10年以上。今回の判例が暴力団の歴史上、唯一無二の判例になることは間違いない。多くの人がその成り行きを見守っている。

(テレビ西日本)

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