前回の書評では、『邪馬台国は「朱の王国」だった』(蒲池明弘 著・文藝春秋)を取り上げた。古代の貴重品である「朱」を切り口に、邪馬台国の様々な謎に迫ったものだ。ただ、「朱」にこだわることで、邪馬台国の全体像がやや見えにくかったかもしれない。

そこで今回は、『邪馬台国再考――女王国・邪馬台国・ヤマト政権』(小林敏男 著・筑摩書房)を取り上げたいと思う。毎月のように新刊書が出る邪馬台国関連の書籍の中でこれを選んだのは、邪馬台国論争の概観をわかり易く、しかも公平に解説してあるからだ。著者固有の邪馬台国にかかわる説も、丁寧に説明され納得しやすいものになっている。著者の小林氏は大東文化大学名誉教授。若いころからずっと邪馬台国や日本古代史に取り組んできた学究の人である。

魏志倭人伝の“決定的瑕疵”

さて、この本の帯には「卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった」と書かれている。どういうことなのだろうと、誰しもが首をひねると思う。種明かしを先にすると、著者は卑弥呼のいる「女王国」と「邪馬台国」は別のものだと主張しているのである。つまり、九州にある「卑弥呼の女王国」と畿内ヤマトの「邪馬台国」が別のもので、同時期に並立していたということだ。

一見すると大向こう受けを狙った説のように感じられるが、そうではない。そもそも九州の「邪馬台国」と畿内の「大和朝廷」がある時期に併存していたという考えは、すでに明治時代に東京帝国大学の白鳥庫吉教授も持っていた。白鳥博士は、卑弥呼の時代を崇神天皇の時代と考えていたようだ。邪馬台国北九州説論者というより、この人が北九州説のさきがけなのである。ちなみに、同年代の内藤湖南・京都帝国大学教授は邪馬台国畿内説を主張し、卑弥呼を垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)に擬定した。この2人の東洋史学の碩学によって、邪馬台国がどこにあったかの論争が始まったのである。そして、その邪馬台国論争は今も決着を見ていない。

ここまで議論して決着がつかないのは、魏志倭人伝の叙述に決定的な瑕疵があるからだ。魏志倭人伝に書かれた旅程を忠実にたどっていくと、邪馬台国は鹿児島を南に突き抜け、西太平洋上に没してしまうのである。そこで方角を無視して距離だけが正しいと考えると、邪馬台国は畿内となり、逆に距離を無視して方角だけが正しいとすると、北九州に邪馬台国があることになる。魏志倭人伝の著者、陳寿さんも罪作りな人であるが、小林氏はその陳寿が畿内のヤマト政権と卑弥呼のいる「女王国」を同一のものとして倭人伝に記述してしまったとする。つまり女王国とヤマト政権が並立していたことになる。そう主張する根拠には文献史学を専門とする小林氏の緻密な文献批判があり、『邪馬台国再考』ではその方法の一部を披露してくれている。

魏志倭人伝の真筆は残っていない。だからなるべく古い写本に頼ることになる。写本を繰り返すたびに誤写が多くなり、オリジナルから離れていくからだ。たとえば、魏志倭人伝に関連する書籍は『魏略』『魏書』『広志』『太平御覧』などがあり、それぞれがいろいろな書を引用していて、それが“親子”の関係なのか、あるいは異なる2つの書が同じ書から引用している“兄弟”の関係なのかを精査するのである。緻密で我慢強い作業だ。

弥生時代の大規模集落遺跡「平塚川添遺跡」(福岡・朝倉市)
弥生時代の大規模集落遺跡「平塚川添遺跡」(福岡・朝倉市)
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記紀と魏志倭人伝との関係

中国の文献ばかりではない。『古事記』『日本書紀』、いわゆる記紀と魏志倭人伝との関係もまた重要だ。実は『日本書紀』の編纂者たちは魏志倭人伝を読んでいて、非常に微妙な形でそれを『日本書紀』に取り込んでいるのである。例えば、神功皇后紀には「魏志云」という形で「倭の女王」が魏の明帝に朝献したと書かれている。

一見すると卑弥呼=神功皇后のように見えるが、小林氏によるとそうではない。日本書紀は「倭の女王」とは書いているが、卑弥呼の名も後継者の壹与(いよ)の名も一切触れていないのである。

神功皇后は夫の仲哀天皇崩御の後、長く摂政を務めていた。事実上のトップで「倭の女王」といえなくもない。しかしそれならはっきりと「神功皇后が朝献した」と書くはずだが、そうなっていない。ある意味、書紀編纂者たちは卑弥呼と壹与の名を日本の歴史から消し去ったのである。これはヤマト朝廷と卑弥呼とは血縁関係がなかったことを暗示している。彼らにとって「倭の女王」は神功皇后以外にはあり得ないのである。そこでこのような、引用のみという叙述に終始したのだろう。

面白いことに江戸時代の国学者・本居宣長が『日本書紀』の記述の隔靴掻痒を、ある意味露骨に解釈している。宣長は「熊襲の女酋(女首長)が神功皇后の名を偽って魏に朝貢した」とする「偽僭説」を主張したのである。書紀編纂者たちも、そう言いたかったのかもしれないが、いずれにしても熊襲にとっては迷惑な話である。

そもそも『日本書紀』によると、神功皇后は仲哀天皇崩御の後、一人で軍を率いて熊襲征伐を実行し、さらに海を越え新羅へ攻め込み、百済、高麗を服属させている。その2カ月後に仲哀の遺児を出産。帰国して先妻の2人の皇子と戦って凱旋するという、なんとも凄まじい女傑ぶりを発揮している。呪術によって人々を惑わし、めったに姿を現さないという卑弥呼とはキャラクターが違いすぎる。

しかしそれならば、初めから魏志倭人伝を無視すればよかったのにと思うが、あえて触れたのには深い事情があった。小林氏は「実は『書紀』の編者にとって重要であったのは、神功皇后を『倭の女王』とみなすことによって、『書紀』の編年上の定点(中国との関係性を示す客観的な定点)を定めようとする意図があった」と説明する。

『日本書紀』は朝鮮半島や中国大陸向けに漢文で書かれた外交的意味合いを持った文書で、そういう種類の文章だけに、中国(魏)との時間的接点が必要だった。そうすることによって、日本の歴史は東アジアの各国との時系列的な関係を切り結ぶことができるのである。

卑弥呼の墓という説もある箸墓古墳 箸墓の拝所(奈良・桜井市)
卑弥呼の墓という説もある箸墓古墳 箸墓の拝所(奈良・桜井市)

「卑弥呼のヤマト国」と「邪馬台国(ヤマト政権)」

さて、著者の小林氏が主張する「卑弥呼のいる女王国と邪馬台国は別のもの」はどういった根拠で説明されているかというと、おおむね以下のようになる。

「陳寿のもとには邪馬台国(女王国)に至る正確な行程資料はなかったものと思われる。いわば陳寿の机上には複数の行程資料が混在していたものと思われる。そこで所在地論争の切り口として考えうるのは、伝聞資料である日数記事と里数記事との分離である。日数記事と里数記事の分離とは邪馬台国と女王国の分離である。陳寿は『南至邪馬台国、女王之所都』の一文によって、女王国と邪馬台国とを同一の国と考えていたことがわかる」。

少し補足説明をすると、倭人伝の日数記事とは不弥国から投馬国の旅程を「水行20日」、さらに邪馬台国までを「水行10日・陸行1月」と日数で表し、里数記事とは、不弥国までは百里などと里数で表現されていたことを指す。そしてこう述べる。

「『隋書』倭国伝には『夷人(えびすびと)は里数を知らず、但だ計るに日を以(も)ってす』とあるように、里数は中国人の距離観であり、日数は倭人の距離観である」。

こうしたことから「水行10日・陸行1月」は倭人からの伝聞だとする。そして、さまざまな根拠を示し、水行は瀬戸内海航路ではなく日本海航路で、北九州から出雲(著者は投馬国は出雲としている)に立ち寄り、敦賀周辺で下船し、徒歩で畿内の邪馬台国に向かうものだと想定する。

結局、こういった複数の旅程記事を“操作”し一つの文章にまとめる過程で、北九州の「卑弥呼のヤマト国」と畿内の「邪馬台国(ヤマト政権)」を同一のものだとしてしまった、あるいはそのように史料を“操作”をしたとしている。

むろん、この説は先に書いたように地道な史料批判によって描き出されたものだが、さらに戦前の喜田貞吉氏や橋本増吉氏といった古代学者の泰斗の考えも補強材料として援用しているのである。そうなると、当然「卑弥呼の女王国」と畿内の「ヤマト政権」の関係はどのようなものだったという興味が自然にわいてくる。後半には、想定される2国関係が描かれているが、それは実際に読んでみたほうがいいと思う。邪馬台国の一般的な知識も得られるし、緻密で論理的な謎解きも楽しめる良書である。

【執筆:赤井三尋(作家)】

『邪馬台国再考――女王国・邪馬台国・ヤマト政権』(小林敏男 著・筑摩書房)

赤井三尋
赤井三尋

本名・網昭弘 早稲田大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送に入社。2003年『翳りゆく夏』で第49回江戸川乱歩賞受賞。2006年フジテレビジョン報道局へ転籍。
【著書】
『翳りゆく夏』( 講談社文庫)
『どこかの街の片隅で』( 単行本・講談社 改題して『花曇り』講談社文庫)
『2022年の影』(単行本・扶桑社 改題して『バベルの末裔』講談社文庫))
『月と詐欺師』( 単行本・講談社 講談社文庫【上・下】)
『ジャズと落語とワン公と 天才!トドロキ教授の事件簿』(単行本・講談社 改題して『面影はこの胸に』講談社文庫)
【テレビドラマ】
翳りゆく夏(2015年1月18日 ~(全5回) WOWOW「連続ドラマW」主演:渡部篤郎)