沖縄がアメリカの施政権下にあった頃、見えない国境があった。
沖縄本島と鹿児島県の与論島の間の海では、1960年代に祖国復帰を願って行われた海上集会が再現された。特別な思いを抱いて参加した男性を取材した。
沖縄が日本から切り離された「屈辱の日」
2022年4月28日、国頭村の宜名真漁港を訪れた金城健一さん。金城さんは、10年ぶりに再現されることになった「海上集会」に参加した。
金城健一さん:
沖縄が祖国から切り離された。だからこそ沖縄の人たちは、北緯27度線の海上で訴えてきたんですよ
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により沖縄は日本から切り離され、アメリカの施政権下におかれた。人々はこの日を「屈辱の日」と呼び、祖国復帰を求める世論は高まっていった。
1963年4月28日、沖縄と本土の代表団が辺戸岬沖の北緯27度線で海上集会を開き、沖縄の祖国復帰を誓った。
しかし、海上集会は1969年が最後となった。アメリカ軍基地の即時無条件全面返還の願いが虚しくついえたからだ。
沖縄出身というだけで差別されていた時代が…
2022年、復帰50年を記念した海上集会への参加を前に、金城さんは特別な思いを抱いていた。
金城健一さん:
ちょうど1965年、70年というのは学生運動真っ盛りの頃です。県の学生寮の沖縄出身の仲間たちと駅に出て、沖縄を返せと、沖縄を本土に返せという運動をずっとやってきた
当時、東京の大学に進学していた金城さんは、沖縄の本土復帰を求める学生運動に参加。沖縄出身ということで差別され、怒りを覚えていたのだ。
金城健一さん:
なぜ、同じ日本人でありながら、パスポートが必要なのか。ドルから円に変えなきゃいけないのと。あなた、沖縄にしては日本語が上手ですねと、僕は教授にさえ、それを言われたというのがいっぱいあったんだよ。あの頃は、やはり沖縄を返還して、沖縄が返るしかないんだ、復帰するしかないんだと
こうした中で、当時沖縄の本土復帰運動を主導していた「復帰協」が海上集会を行うことを知り、金城さんは県出身学生の代表として本土側の船に乗った。
海上集会による平和の架け橋「これからも復帰を問い続ける」
1972年5月15日、沖縄は念願の本土復帰を迎えたが、未だに課題は残されたままだ。
金城健一さん:
復帰してみたら、米軍基地が7割、沖縄に置かれたままで、辺野古では新しい基地を作ろうということが50年続いている。悲しい叫びですよ
与論町関係者:
沖縄祖国復帰50年、誠におめでとうございます
国頭村副村長 宮城明正さん:
遠く離れていても、平和への架け橋となることを目指して不断の努力を続けていきましょう
本土復帰の喜びを感じつつも、金城さんは復帰から50年たった今も「基地の島」が続いている現実を訴えた。
金城健一さん:
(日本国憲法で)国民は法の下に平等であると言いながら、平等にはなってこなかった50年ですよ。真の沖縄は本土にはまだ返っていないんですよ。だから、これからもこういう訴えを続けていかなければならない
本土復帰を願って国頭村と与論島で行われていた、かがり火も再現された。
金城健一さん:
このかがり火がしっかりと与論にも確認できたわけですから、決して未来、これからの50年、暗くないという展望を持って生きていきたいと思います
分断の歴史から70年。沖縄と与論の絆を深めた海上集会。
金城さんは、これからも「本土復帰」を問い続け、次の世代が平和に暮らせる沖縄を作っていくことを誓った。
(沖縄テレビ)