2009年に始まった裁判員制度。国民が刑事裁判に参加する制度で、選ばれた裁判員は裁判官とともに被告が有罪か無罪か、有罪の場合にはどのような刑にするのかを判断する。それは極刑となる死刑を決める可能性も意味する。

しかし私たちはこれまで死刑という刑罰と向き合ってこなかった。犯罪で家族を亡くした遺族3人を追うことで見えてきた現実から、死刑について考えていく。

フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が今年で第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を、各局がドキュメンタリー形式で発表。今回は第18回(2009年)に大賞を受賞した東海テレビの「罪と罰 娘を奪われた母 弟を失った兄 息子を殺された父」を掲載する。 

(記事内の情報・数字は放送当時のまま掲載しています) 

娘を奪われた母・磯谷さん

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名古屋闇サイト殺人事件。2007年、携帯電話の闇サイトで集まった男3人が、会社帰りの女性を車で拉致。30キロ離れた駐車場で現金6万円とキャッシュカードを奪って殺害した。

岐阜県瑞浪市の山に遺体を遺棄したものの、死刑を恐れて川岸健治被告(当時40・無期懲役)が自首し、事件が発覚。神田司被告(当時36・2015年死刑執行)と堀慶末被告(当時32・死刑囚)も逮捕された。

磯谷富美子さんは、この事件で一人娘の利恵さん(享年31)を亡くした。

利恵さんの母・磯谷富美子さん
利恵さんの母・磯谷富美子さん

「許せない」「3人を死刑にしてほしい」という感情が湧きあがったというが、磯谷さんが知ったのは司法の壁だった。最高裁は1983年に永山事件で死刑の判断基準を示し、その後の裁判では「強盗殺人の場合、2人以上の被害者は死刑。1人の殺害では無期懲役が妥当」としたのだ。

死刑の判断基準となる“永山基準”
死刑の判断基準となる“永山基準”

磯谷さんはこの“永山基準”に納得できなかった。事件から4カ月後には3人の死刑を求めて街頭で署名活動を実施。目標は30万だったが、母の声は“数”の形になってすぐに返ってきた。

裁判での被告の態度に世間は唖然

そして事件から1年後。裁判が始まると3人の被告の態度に世間は唖然となる。

検察「神田被告が、利恵さんの頭を40〜50発殴り続ける行為を見てどう思いましたか?」
川岸被告「サスペンス劇場を見ているような感じでしたね」
検察「利恵さんに対する気持ちは?」
川岸被告「お気の毒ですとしか言いようがありません」
検察「利恵さんは、なぜ殺されたのですか?」
川岸被告「運が悪かった」
検察「申し訳ないという気持ちはありますか?」
川岸被告「そこに包丁があるなら刺してください。私は、抵抗はしません」

この態度に富美子さんは「私も死刑を望んでいるし向こうもそうならば、裁判をしなくて、さっさと死刑にしてもらいたい。遺族としては一日も早く、この世からいなくなってほしいという思いが強いものですから」と、思いの丈を口にしたのだった。

弟を失った兄・原田さん

原田正治さんは、1983年に弟の明男さん(享年30)を殺害された。京都府木津川市の川で遺体で見つかったのだ。

弟が勤めていた運送会社の社長・長谷川敏彦(旧姓 竹内・2001年死刑執行)が1年後に逮捕。長谷川は保険金をだまし取るため、他にも2人を殺害していた。

原田さんは当時の心境をこう振り返る。

「極刑しかない、絶対極刑。死刑しかあり得ない。だから一審で死刑判決が出ればそのまま死刑にされるという思いがあったので、もう絶対的に早くしてほしいという思いだった」

事件は当初、交通事故として処理された。保険で葬儀費用などをまかない、「世話になった」と長谷川に金まで貸していたという。しかし殺人事件と分かり保険は取り消しとなる。原田さんは多額の借金を被り、過労による不注意で作業中に薬指を切断。追い打ちをかけるように、脳卒中で倒れた。

明男さんの兄・原田正治さん
明男さんの兄・原田正治さん

裁判は一審も二審も死刑判決となったが、原田さんは「そりゃ憎いに違いない。許せるものでもない。でも今までの強い思いというのが、死刑判決によって半分以上消えている」と吐露。判決が出たことで心境に変化があったのだ。

「死刑になる」と思ったことで、原田さんは見向きもしなかった長谷川からの封書を開く。そこに綴られていたのは許しを乞う謝罪の言葉だった。

謝罪を直接受けたいという兄の思い

そして二審の死刑判決から6年後、原田さんは拘置所に足を運んだ。謝罪を直接受けたいとの思いからだ。そして、「なぜ弟が殺されなければならなかったのか」という怒りを長谷川にぶつけたかった。

初めての面会は20分だったが、会ったことで自身の心境を改めて知ることができた。

「大きな声で『ごめんなさい』と(長谷川が)言った。逮捕されてから法廷でも一度も聞いていないんです。行くことによって直に聞けた。そりゃあ腹立たしいです。やっぱり許すということではないと思うんです」(原田さん)

拘置所を訪れる原田さん
拘置所を訪れる原田さん

その後、最高裁で死刑が確定。拘置所の規則で長谷川と会うことができなくなり、最終的に面会できたのは計4回だった。

原田さんは長谷川と面会を重ねるうちに、生きて罪を償ってもらいたいと考えるようになった。そして2001年4月には法務大臣に処刑を待ってほしいと願い出る。しかし叶わず、半年後に死刑が執行された。

死刑執行前に残した遺書
死刑執行前に残した遺書

「本日、死刑執行によって、この世を去らなければならなくなりました。生きて罪を償うことを切にお望み下さった正治様には、そのご期待に応えることができなくて本当に残念で、申し訳なくてなりません」(長谷川が残した遺書)

5度目の面会は棺の中で、原田さんが見たのは死刑の現実だった。

この死刑の執行で、原田さんは “目標のようなもの”を失い、ガクッときたという。「この野郎という思いも彼がそこにいるからあって。それがまったくなくなった」「死んで償うなんていうのは全くあり得ない。身を持って分かりました」と振り返った。

原田さんが設立した市民団体
原田さんが設立した市民団体

長谷川の処刑から6年が経っても、原田さんは死刑について考え続けていた。そして設立したのが市民団体Ocean。「犯罪の加害者と被害者が対話することで何かが変わるかもしれない」と考えてのことだ。

ここから原田さんは、死刑判決を受けた被告たちとの面会をしていく。そのうちの一人が、1994年に岐阜県などで4人を集団で暴行し殺害した当時19歳の男だ。

息子を殺された父・江崎さん

江崎さんの事件現場
江崎さんの事件現場

その男に一人息子・正史さん(享年19)を殺されたのが、江崎恭平さん。

江崎さんは「こんな連中に更生してもらう必要はないと思いました。ですから『どんな刑を望みますか?』と言われると、『極刑です』と言っております」と、加害者への死刑を強く願っていた。

正史さんの父・江崎恭平さん
正史さんの父・江崎恭平さん

一方で、拘置所から送られてきた手紙にあるのは謝罪の言葉。

「『大事な命を奪って申し訳なかった。一生懸命できることを償っていきます』と書いてあるんですよ。だから私は、意見陳述の時に聞いたんです。『どういうふうに償うの?』 。そういった問いかけに対しては、その後の手紙にも何も書いてありません。

『少年だから死刑にならないという前提のもとに書かれていないか?』ということを、いつも問うんです。死刑という言葉の裏に、すべての償いがある。だからそれ以外のものは何もいらない」(江崎さん)

少年から送られてきた謝罪文
少年から送られてきた謝罪文

Oceanの原田さんは拘置所の男が望んでいた江崎さんとの面会の橋渡しを行動に移す。メールで話がしたいと送ったのだ。

しかし、江崎さんの心には響かなかった。返信されたメールには「どうして私にこのようなメールを送られたのでしょう。亡くなった者が、どのような仕打ちの中で苦しみ、息絶えていたかご存じのはずだとは思いますが」と綴られていた。

遺族それぞれが考える「死刑」

原田さんは、死刑制度について発言をするようになってから、非難の手紙や無言電話を受けるようになった。そして孤独にもなっていった。家族も原田さんを理解できず、妻と子供たちは原田さんの元を去った。

自宅で食事をする原田さん
自宅で食事をする原田さん

一方、江崎さんは命の尊さを教える催しの運営スタッフとして参加するなど、原田さんとは違うアプローチで死刑について考えている。

「たとえ加害者であっても命はあるはずなんです。その命を私は『くれ』と言っている。謝ればいいのか、反省すればいいのか。そんなことじゃないだろうと。この事実は消えんだろうと。

仮に死刑判決が出たらいずれ執行されるわけです。そのことも私たちの頭の中からは生涯消えないと思うんですね。でも許せるのかと言ったときに、そんな問題とはまた違うんです。だったら『今まで通りの死刑でいい』と自分に言い聞かせているんです」

命の尊さを教える催しのスタッフとして参加する江崎さん
命の尊さを教える催しのスタッフとして参加する江崎さん

磯谷さん「1人の被害者では、死刑は本当に難しいのでしょうか」

娘を殺害された磯谷さんは、19回に及ぶ裁判に出るため仕事を辞めた。事件後は家にこもることが多く、外出は裁判以外では週に2度の買い物だけだとなった。

事件から1年半経った頃、ようやくアルバムを開いて、思い出をなぞることができるようになったという。

見ていたのは家族3人がお城の前で記念撮影した写真だ。利恵さんはまだ幼い。しかしこの写真が、「主人が生きている時の最後の写真」だという。磯谷さんの夫は、利恵さんが1歳の時に亡くなっている。それも、利恵さんと同じ31歳の時だった。

磯谷さん家族が3人で写った最後の写真
磯谷さん家族が3人で写った最後の写真

2008年12月、母は初めて証言台に立ち裁判長に尋ねた。

「1人の被害者では、死刑は本当に難しいのでしょうか。どんな内容であっても、それは難しいのでしょうか」

死刑を勝ち取り日本の裁判を変えるのが、母にとっての娘の生きた証なのだ。

2009年2月の名古屋地裁・最終弁論では、川岸被告と堀被告が「申し訳ありませんでした」と謝罪の言葉を初めて口にしたが、磯谷さんは「私はそれを受け入れる気持ちはありません」と強い口調で拒否。

そして翌3月、神田被告と堀被告に死刑、川岸被告に無期懲役が言い渡された。この判決に、磯谷さんは「(死刑判決が)二人に出たということは、次、頑張ればもう一人も出るかもしれないという希望は確かに見えた。しかし、被害者の遺族になるっていうのは、こんなに辛い思いをその後でも重ねるのかなって」と心境を吐露した。

心境を吐露する磯谷さん
心境を吐露する磯谷さん

国連は2007年、死刑を存続している国に処刑の停止を求める決議をしたが、日本はこれを拒否。世界の流れに反する動きの背景には8割が死刑を支持する日本国民がいる。

全国で発生する殺人事件は、毎年およそ1200件(2008年当時)。裁判員制度では、我々が死刑の判断もすることになる。

(第18回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品 『罪と罰 娘を奪われた母 弟を失った兄 息子を殺された父』 東海テレビ)

裁判員裁判で死刑判決となった地裁の公判も出ているが、現在、その判決が控訴審で破棄される事例が相次いでいる。裁判員裁判制度が開始され10年以上が過ぎた今、国民と司法の間に乖離が見られる。また死刑制度に対する議論も進んでいない。

2022年1月31日現在、収容されている確定死刑囚は107人。最近では2021年12月21日に2年ぶりに確定死刑囚3人の死刑が執行された。

東海テレビ
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