神戸市須磨区。1997年5月24日、タンク山と呼ばれる山で小学校6年生の男の子が、14歳の中学生に命を奪われた。

フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が今年で第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を、各局がドキュメンタリー形式で発表。

今回は第13回(2004年)に大賞を受賞した関西テレビの「罪の意味 ~少年A仮退院と被害者家族の7年~」を掲載する。

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後に神戸連続児童殺傷事件と呼ばれるこの事件は、刑事罰対象年齢が16歳から14歳に引き下げられるなど、その後少年事件が厳罰化されるきっかけともなった。さらに被害者家族が事件記録の閲覧できるようになるなど、被害者へ支援も考えられることになった。

愛する家族を失った被害者家族は、その時、その後、何を感じていたのか。

(※記事内の情報・数字は放送当時のまま記載しています)

神戸連続児童殺傷事件の被害者家族は…

1997年5月24日、神戸市須磨区で小学6年生の男の子・土師淳君が行方不明となった。

淳君の兄・巧さんは現在20歳。当時をこう振り返る。

5月24日土曜日、あの日の午後、家はいつもと変わらない雰囲気でした。祖父のところに行くと出た弟が帰って来ず、5時頃になり、心配になってきた自分は自転車で探しに行きました。

2〜3時間探して、ふと戻っているのではと思って家に帰りましたが、弟は帰っていませんでした。父たちが探しに行っている間、家で「なんでこんなに遅いんやろ」、そう思いながら待っていました。

事故とか嫌なことは考えないようにしていました。

淳君の行方がわからなくなった3日後、兄・巧さんの通う中学校の校門で首を切られた淳君の頭部が見つかった。

その後淳君の体はタンク山のアンテナ施設で見つかった。顔は傷つけられ、口には酒鬼薔薇聖斗と書かれた挑戦状が残されていた。

当時の兵庫県警捜査一課強行犯係長は、事情聴取時の家族の様子を次のように話した。

「奥さんについては、約2週間ほとんどもう話も聞けない状態。お兄ちゃんの巧君も閉じこもり状態で話を聞けない。だから先生(土師守さん)が代表して『しばらく落ち着くまでは私が話すから、他の家族には話を聞かないでくれ』と。

事件から2週間位経った頃だと思います。状況的には捜査でこれがおかしいとか色々ありましたんで、『巧君が知っている中で、淳君をこのような被害に遭わせる犯人の心当たりは無いか』という話を聞いています。

どういう状況かと言うと、まだ正常な状況ではないですね。ポツンポツンと単語で話すくらいで、なかなか文章で言葉が返ってくる様子はなかったです」

淳君の父で医師の守さんは、現実の事とは思えなかったという。

「はっきり言って現実の事とは思えないような状況でした。本当に映画の中のワンシーンというか、夢を見ているような状況で、地に足がついているとは言えない状況だったと思います。現実だと理解しつつも、それを違うと思う別の自分がいたりするような状況でした」

1カ月後の6月28日、後に「少年A」と呼ばれる14才の少年が逮捕された。過去に例のない凶悪な罪を犯した14歳の少年は、少年法の精神に則り一般社会から隔離される。その一方で被害者の家族はクローズアップされていった。

メディアスクラムに襲われた被害者家族

自宅の扉には集まる報道陣に向けた、お願いの紙が貼られていた。

事件のことに関しましては、連絡を受けて知りました。
いろいろと有り難うございました。
ただ、現在の私どもの心境はとてもコメントさせていただく状態ではございません。
どうぞお察しの上、そっとしておいて欲しいと思いますので、宜しくお願い致します。

当時家族が住んでいたマンションは、家族が淳君と一緒に過ごした最後の場所だ。そこから平穏な時間は無くなってしまった。

「あの日須磨警察から帰ってきて、帰ってきた時点でマスコミ関係者も待ち構えていたわけです。前のマンションから部屋をカメラで狙われているのも一目瞭然でしたので。ずっとカーテンは締め切ったままの状況が結局7月半ばくらいまで続きました。

なぜ被害者がここまでされなければいけないのかというのは、非常に疑問に思いました。本当に異常な状況ですから」(守さん)

奪ったものは弟の命だけではない

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕ってくれていた淳君は、巧さんといつも一緒だった。一緒の部屋で寝て、一緒の部屋で机を並べていた。淳君がいなくなった後のことはあまり覚えていないという。

「頭が何も考えようとしなかったし、それと同時に凄いごちゃごちゃとしていて、気分が凄い悪くて、何をしていいかわからなかったし。本当にいまだに思い出せないくらい、感情が渦巻いていたというか。ただつらかっただけとしか言いようがないです」

少年Aが奪ったものは、淳君の命だけではなかった。

「やはり耐えられないものって出てきたんで。元々相手も通っていた学校だし、すごく凄く嫌だなって」

少年Aは巧さんと同じ中学校の上級生で、同じ卓球部に籍をおいていた。

事件後、学校に行きにくくなり、気づかった担任教師が頻繁に様子を見に来てくれたものの、中学3年生になってからは、ほとんど学校に行くことが出来なかった。

「まあ言うなれば自分から壁を作っていたと思うんですけど、やはり何も理解してもらえないという壁を凄い感じたので。世間は凄く冷たいものだとわかりましたし、友達を同じ目で見ることもできなくなったし、同じ目で見てもらえることも無かったと思います」

「被害者家族が納得できるはずもない」

事件は家庭裁判所で非公開の審判に移された。

守さんは審判に出席して意見を述べたいと要望したが、聞き入れられず、被害者家族は蚊帳の外に置かれたまま。さらに当時の少年法では、16歳未満は刑事処分とはならなかった。そのため少年犯罪史上最も凶悪な犯罪を犯したこの少年も、保護処分となり、医療少年院に送られることになった。

守さんが審判への立ち会いを求めたのは、少年と直接向き合い、事件が何故起きたのか知りたいためだった。現実を受け止めるためにも必要なことだった。

しかしその希望は叶えられず、守さんの心から少年に会う意思は失われた。そして少年Aも被害者の苦しみを正面から受け止める機会を失った。

一方、国会では事件をきっかけに刑事罰を課す年齢を引き下げる動きを見せていた。守さんも2000年、衆議院法務委員会に参考人として出席した。

「犯人が14歳。まともな裁判も無いし、まともな罰も当然受けないし、殺された上に犯人に対する罰もろくに無い。それで私達被害者遺族が納得できるはずもない。そしてこの悲しみというのは1年やそこらで収まるものでもないですし、こういう犯罪で家族を亡くした遺族というのは、一生この気持から逃れられないという風に思っています」

少年法で守られる加害者と、つらい気持ちだけが残り続ける被害者家族。

「大人であれば、2人の人間殺して、1人は大怪我負わせて、それ以外にも軽傷を負わせている人もいるわけですから、当然これに対する罰というのは非常に厳しいものになると思うんです。そこから比較すると納得するわけがないですから。日本は法治国家ですから、その法の中でやっていくしか無い。それで問題があれば皆で変えていく方向に持っていくしか無いと思います」

反社会的価値観や性的サディズムがあるとされた少年A。少年院ではその治療と矯正教育が始まっていた。精神科医や法務教官らは少年Aのために特別処遇チームを作り、赤ちゃんを包み込むような対応に務めた。

次第に少年は「死にたい」一辺倒から、「社会で温かい人間に囲まれていきたい」と思うまでに変化したという。

少年Aの更生が公費で取り組まれる一方で、被害者家族である巧さんには一切の公的支援が無かった。出席日数も足りず公立高校への進学は絶望的だった。心に深い傷を負った巧さんを守さんが遠くの高校まで3年間、毎日車で送る日々だった。

家族の力しか頼るものがない日々だった。

「更生してくれるようなら結構なことだと思いますけど、まあ内心は『どうして弟はあんな目に遭わされたのに、相手側はのうのうと生きられて、社会的に保護されていて、まともな生活ができるのかな』と思いますけど。

もし本当に罪が償えると思っているならそれは傲慢だと思うし、所詮言い逃れに過ぎないと思っています。被害者にはなんの権利もなくて、加害者に対してはすごく守ってくれるという…。法律ではそうなっているのはわかっているんですが、やはり法律は正義ではないと思いました」
 

巧さんは「法律は正義ではない」と被害者家族の苦悩を吐露した。後編では少年法で守られる“加害者”の更生を目指す国に対する、被害者家族の憤りに迫る。


(第13回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品『罪の意味 ~少年A仮退院と被害者家族の7年~』関西テレビ・2004年)

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