生きていく中で、誰もが出さざるを得ないゴミ。

90年代初頭、大量生産・大量消費の時代の中で廃棄物の排出量は増加し、日本列島は危険な産業廃棄物の不法投棄問題で揺れていた。焼却施設や埋め立て施設などの処理施設は住民の反対運動などで新設できないなど、ゴミの“処分”を巡って各地で社会問題となっていた。

フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が今年で第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を、各局がドキュメンタリー形式で発表。今回は第5回(1996年)に大賞を受賞したフジテレビの「幻のごみ法案を追う〜ある厚生官僚の遺言」を掲載する。

ゴミ、つまり廃棄物に関する行政を取り仕切るのは厚生省(現・厚生労働省)。その中で、処理が困難になったゴミを“企業の責任”で回収することを義務付けるよう、命を賭して孤軍奮闘した一人の官僚がいた。

(記事内の情報・数字は放送当時のまま記載しています)

画期的な「廃棄物処理法」原案を作った男

「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」の改正原案
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社会で生きる以上、誰もが出さざるを得ないゴミ。この“ゴミ”、つまり廃棄物に関する行政を取り仕切るのは厚生省だ。廃棄物が病気の予防、汚物処理の延長上にあるという理由からである。

この廃棄物に関して、“取り扱い注意”と書かれた書類を見つけた。1991年に厚生省が立案した「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(廃棄物処理法)の改正原案だ。

そこでは事業者の責務が具体的に明記され、「企業に過失があるなしにかかわらず処理が困難になったゴミはすべて企業の責任で回収せよ」と謳っている。しかし現在施行されている法律に、こうした部分は影も形もない。

ごみ問題に詳しい同志社大学経済学部の郡蔦孝教授は画期的という言葉を口にした。

「メーカー回収責任がこの時にできているということになれば、まさに世界の流れのリードをするといいますか、画期的な法律になっていたはずですね」

“画期的な法律”が、なぜ日の目を見ることがなかったのか。世に出ることのなかった法案は誰がどのようなプロセスで、どんな思いで作ったのか。

件の法案作成の中心になった人物を調べると、厚生官僚の荻島國男だと分かった。

荻島は法案作成に関わるまでゴミとは全く関係のないセクションにいて、大抜擢だったといわれている。この法案改正に携わった後、48歳の若さで亡くなった。

廃棄物処理法が成立した1970年に入省

1970年、いわゆる“公害国会”が開かれ、公害に関して企業責任を明確にした法案が成立。その陰で、いわゆる廃棄物処理法も成立していたが、こちらは企業責任には触れていない。

奇しくもこの年、荻島は東大法学部を経て厚生省に入庁。3歳から高校生までぜんそくに苦しめられたこともあってか、大学の友人には、これから厚生省が重要な省庁になると語っていたという。

入省後は、20年に渡り福祉中心に歩いていた。厚生年金保険法改正、老人保健法改正、児童手当制度の基本問題研究会報告書の作成など、福祉の主だった法律にはほとんど関わっていた。

その間、日本経済は「日本列島改造」や「高度経済成長」、そしてバブルへと、物質が豊かになることに突き進み、国民の多くもその中で使い捨てに慣れていく。1975年には約4200万tだった一般ごみの排出量も、90年には5000万tを超えた。

また、企業が出す産業廃棄物に至っては、75年の約2億5000万tから90年には約4億tと、ひたすら右上がりで、危険な産業廃棄物の不法投棄などが社会問題となっていた。

そんな中、1990年の第2次海部内閣で厚生大臣に指名された津島雄二が、廃棄物処理法の20年ぶりの大改正をぶち上げる。選挙区の青森に、首都圏のゴミが持ち込まれたことに住民が反発したことがきっかけだった。

「担当課長の荻島君が必ずやってみせると。彼の熱意と実行力に非常に強く打たれてですね。それじゃあ、大臣として大きく号令を出して進んでいこうと踏み切ったわけです」(津島雄二代議士)

法案改正のリーダーに抜擢されたのが、当時児童手当課長だった46才の荻島。1990年6月にごみ処理問題を管轄する水道環境部計画課の課長に就任した。

荻島には3つの不安材料があった。

ひとつは、この法案改正に手をつけると必ず触れなければならない企業責任の問題。それはこの20年間、厚生官僚の誰もが避け続けてきたことで、財界などから圧力のかかることが予想された。

そして健康への不安で、彼はこの2年前に胃壁に穴があく胃穿孔で倒れ、胃の3分の2を切除していた。

さらに、国会への提出期限までわずか8カ月。

荻島は廃棄物処理法の抜本改正に着手するにあたり、まず現場を徹底して見て歩いた。当然仕事は激務となり、萩島の妻によると、帰りが午前12時から1時となり、そして2時、3時という日もあったという。

そんな激務の中、荻島はごみ問題について、市民の意見を聞く会も主宰していた。

「厚生省の水道環境部の計画課長、荻島と申します。非常に小難しい制度ではありますが、できるだけいろんな方のご意見を聞いて、制度に反映をさせていこうということで。伺ったことがどこまでですね。制度の見直しに反映できるか本当に自信もありません。そんな腕もないわけでありますが、今日は私がお話しするよりは、むしろ聞かせていただきたい」(荻島)

唇をかみしめ審議委員の意見を聞く萩島

1990年7月、どういう方向で改正すべきか専門家の意見を聞く審議会が始まり、いよいよ廃棄物処理法の改正作業が本格的に動き出す。その審議会の席上で、仕事中の荻島の姿が映っていた。唇をかみしめ審議委員の意見を聞いている。

最初の改正原案には「事業者の責務」を明記

審議会の答申が出たのは、およそ5カ月後の12月10日。ここから荻島は24人のスタッフとともに法案作りを進め、1991年1月21日に冒頭の原案が完成。注目すべき点は次の3つとなる。

1.国民の責務
2.事業者(企業)の責務
3.事業者(企業)の処理

「国民の責務」においては、ゴミの発生をなるべく抑え、リサイクルに努めるほかに、廃棄物を分別して排出することが明記。現在ではすっかり定着している“燃えるゴミ”と“燃えないゴミ”の分別、ビン・缶類の分別などはこの時に打ち出された。

そして問題の「事業者の責務」には、事業者はその製造・加工・販売等に係る製品容器等が、つまりメーカーが自分のところで作った製品が、消費者を経由してその処理が困難な廃棄物となった場合、その回収等を行わなければならないとあるのだ。画期的な内容だった。

これが明文化されると、企業は製品がゴミになったときのことまで考えてモノを作らざるを得ない。コストをかけてでも再利用しやすい原材料を使うことになり、生産流通システムが変わっていく。

企業に回収の義務を課し、戦後の高度経済成長のツケをいよいよ払わなければならないという意識変革を求める画期的な条文だった。

最後の、「事業者の処理」としては産業廃棄物の運搬や処分を他の人に任せる場合は、運搬又は処分を行うために通常必要と認められる費用に満たない金額で、委託契約を締結してはならないとある。最初からきちんと処理できないような少額で、安易な処分を頼んではいけないとしている。

当時の厚生省

しかしこの原案を荻島が出したところ、待っていたかのように各省庁から800もの質問がどっと押し寄せた。当時のスタッフの一人は、「法案潰しともいえる細かさで、バカバカしくなった」と振り返った。

特に荻島の原案は、企業にリサイクルへの協力を求める再生資源促進法(リサイクル法案)を進める通産省の管轄に大きく立ち入っていた。厚生省の切り札・荻島と、最強の敵・通産省との折衝は、連日連夜に及んでいった。

さらに、この原案に対して政党からの反発も強かった。当時の単独与党・自由民主党にも荻島は説明に出かけている。面と向かって怒鳴られたり、叱責されたりすることもあったが、荻島は臆することなく理路整然と答えていた。

第2次案で記された注目すべき3点の内容

そして最初の原案ができてから、二十二日後の2月12日に第2次案が完成。

注目すべき3点については、「国民の責務」は残されていた。しかし、「事業者の責務」では、企業の回収義務が完全に消えていた。事業者は自治体の施策に協力しなければならないという表現で、“協力”という言い回しにとどまった。

さらに、「事業者の処理」の項目にあった「適正価格での処理業者への委託」という条文はスッポリと抜け落ちていた。

「企業責任を問う」という原案を荻島は守りきれなかったが、これについて当時の厚生省幹部は意に介していなかった。

当時、改正作業の現場最高責任者だった生活衛生局長は「短期間で、これだけの全面改正がよくできたと思う。荻島君も99%満足していたと思う」と話し、直属の上司だった水道環境部長は「企業責任は明文化できなかった。しかし方向性は示せたと思う。120%の出来だ」と、口をそろえて満足のゆく内容だったという。

しかし萩島の当時の部下の話は食い違った。

「『厚生省自体のこれまでのごみ行政がしっかりしていれば、問題はここまでになっていなかった』と荻島さんは言っていた」
「他省庁からの攻勢だけでなく、上司の意見の食い違いなど、厚生省内部のことでも怒っていました」

荻島が譲歩を余儀なくされた二次法案。しかしこれでも各省庁と完全に意見調整ができたわけではない。

その間、通産省は1991年2月22日に満を持してリサイクル法案を提出し、国会ですんなり成立。しかし、厚生省案は調整が遅れたため、国会提出が3月にずれ込んで継続審議となり、明暗も分けることとなった。

1991年5月に胃がん発覚し、10月に改正法成立

そして荻島が仕事に一区切りをつけ、がんセンターで検診を受けたのが1991年5月。すでに手術できないほどがんは広がっていた。

「余命6カ月、治療を受けて1年」という医者の言葉を、荻島は茫然自失で聞いたという。そして霞が関を離れ、闘病生活に入ることになる。

東京・築地にある国立がんセンターに、荻島は4度の入退院を繰り返した。法案作成の忙しさの中で激務が続いて検査の機会を逃し、進行性の胃がんはその間に体を蝕む。抗がん剤を打ちながらの延命治療しか方法は残されていなかった。

そんな状況の中、荻島がまとめ上げた廃棄物処理法の最終改正案は、その秋(1991年10月2日)の臨時国会でやっと成立した。

荻島はその知らせをベッドの上で聞いている。文字通り、“自分の命”を削った最終案の成立だが、ここに何が欠けているのかを荻島自身が一番よく知っていた。

1992年4月28日、志を霞が関に預け、荻島國男は逝去した。

法案改正から5年が経った1996年でも日本列島はゴミ問題で揺れている。

廃棄物の第2処分場の建設に反対する地元住民。東京・日の出町

荻島が明文化しようとしてついに果たせなかった企業責任。あの原案がもし成立していたら、その後のゴミ問題は大きく違った展開になっていたはずである。

(第5回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品 『幻のゴミ法案を追う〜ある厚生官僚の遺言』 フジテレビ) 

1997年の改正では、多量に産業廃棄物を排出する事業者が作成する処理計画について、廃棄物の減量の視点を明確化することが盛り込まれた。しかし2000年以降も幾度となく改正されているが、いまだに事業者の責務は「国及び地方公共団体の施策に協力しなければならない」という表現にとどまっている。