海部元首相が亡くなった。91歳だった。記者として直接担当したことはないが、取材で見聞きした思い出を記したい。

激動の時代の舵取りを担った海部氏

海部氏は参院選で惨敗し退陣した故・宇野宗佑氏の後を継いで1989年8月に首相に就任し、1991年11月まで在任した。

1989年8月 海部政権発足
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国内ではバブル経済が崩壊、海外ではベルリンの壁崩壊、湾岸戦争、ソ連共産党解散など時代を画する大きな出来事が相次いだ。

ベルリンの壁崩壊(1989年)

こうした激動の時代に日本の舵取りを担った海部首相だが、国内での最大の政治課題のひとつが、リクルート事件に端を発した国民の政治不信を解消するための政治改革だった。

政治改革への並々ならぬ情熱

その柱は選挙制度を中選挙区制から小選挙区と比例代表を組み合わせた選挙制度に変えることだったが、政治改革法案は、自民党内の猛反発にあい、法案を審議していた衆議院の政治改革特別委員会で委員長が廃案を宣言した。

クリーンを標榜した三木武夫元首相の秘蔵っ子とも言われた海部氏としては、政治改革は譲れない重要案件だった。海部氏は選挙を担当する自治大臣(いまの総務相)らを急遽首相官邸に招集した。私も取材にかり出されたが、出席した閣僚の1人から「海部首相は『重大な決意で臨む』と言った」と聞いてびっくりした。

首相の「重大な決意」は衆議院解散か内閣総辞職を意味するからだ。発言は瞬く間に永田町に広がった。筆者は当時、主に選挙報道を担当していたが、衆院選に向けての準備はほとんどしていなかったので「いま選挙なんてとんでもない」と思ったのが本音だ。

三木武夫元首相の秘蔵っ子と言われた海部氏

ところが首相として最も重い言葉である「重大な決意」は、当時自民党を牛耳っていた竹下派の金丸信,小沢一郎両氏らにあっさり覆され、自民党内で海部おろしが本格化、海部氏は自民党総裁再選断念に追い込まれた。

海部氏は水玉模様のネクタイをトレードマークに「一所懸命」を口にしながら、わかりやすい言葉で国民に語りかけ,内閣支持率も上々だったが、竹下派の傀儡政権という構造から抜け出すことはできず、大勝負に出たが負けた。失意のうちの退陣だったと思う。

自衛隊初の海外任務を実現

海部首相の業績で評価すべきと思うのは、湾岸戦争後にペルシア湾に海上自衛隊の掃海艇を派遣したことだ。日本は多国籍軍に130億ドルの巨費を拠出したのに国際的に評価されなかった。そして停戦後にペルシア湾の魚雷除去という日本の得意分野で貢献することになった。自衛隊初の海外での実務だった。

湾岸戦争後にペルシア湾に海上自衛隊の掃海艇を派遣(1991年)

筆書は掃海艇派遣当時、防衛庁(いまの防衛省)を担当していた。掃海作業を取材するため、海上自衛隊の補給艦でドバイから現場に向かったが、ペルシア湾では各国の海軍が活動していて、日本の自衛艦とすれ違うたびに、手を振るなどして挨拶を交わしていた。

初の海外任務に向けて出発する自衛隊員

時には外国の軍艦上で先方の軍人と日本の自衛官との交歓会が開かれたこともあると聞いた。外国と共にする人的な国際貢献には、金には代えられない意義もあるんだなとそのとき実感した。

ご冥福をお祈りする。

晩年の海部俊樹元首相

【執筆:フジテレビ 解説委員 山本周】

山本周
山本周


フジテレビ報道局解説委員。1956年、名古屋市生まれ。 福岡県立修猷館高校、早稲田大学政経学部卒後、フジテレビに入社以来、報道一筋。首相官邸、自民党、野党などの担当を経て政治部デスク、政治部長などを務めたほか、「ニュースJAPAN」編集長や「スーパーニュース」コメンテーターなどを担当した。

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