太平洋戦争の発端となった1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃から80年。

旧日本軍の奇襲によって海底に沈んだ戦艦アリゾナのすぐ近く、爆弾が降り注ぐその場所には約20人の幼い子供たちがいた。惨劇の渦中で子供たちは何を見て何を思ったのか。

アメリカでもあまり知られていない「子供たちの真珠湾」。その貴重な証言が明かされた。

爆撃のまっただ中にいた子供たち

パトリシア・ベリンジャー・カウフマンさん(94):
「アリゾナやオクラホマといった戦艦が目の前で爆発し、兵士たちは燃えさかる油の海に吹き飛ばされていました。現実にはあり得ないテレビ番組を見ているようでした。日本の“カミカゼ”は芝生をかすめるほど低く飛び、パイロットの顔がはっきり見えるほどでした」

パトリシア・ベリンジャー・カウフマンさんは、80年前のことを驚くほど鮮明に記憶している。

パトリシア・ベリンジャー・カウフマンさん
パトリシア・ベリンジャー・カウフマンさん
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旧日本軍によるハワイの真珠湾攻撃。
アメリカ側の犠牲者およそ2400人のうちほとんどが軍の関係者だが、実は激しい空爆のまっただ中には幼い子供たちがいた。当時14歳だったカウフマンさんもその一人だ。

カウフマンさんが住んでいたのは真珠湾に浮かぶフォード島の北東部。1100人以上の犠牲者が出た戦艦アリゾナからわずか数十メートルに位置するこの地区には、アメリカ軍関係者の家族が住む19軒の官舎があり、20人余りの子供たちが暮らしていた。

白い慰霊施設が戦艦アリゾナが沈没した場所。子供たちがいたフォード島が目の前にあるのが分かる
白い慰霊施設が戦艦アリゾナが沈没した場所。子供たちがいたフォード島が目の前にあるのが分かる

14歳の少女が見た真珠湾攻撃

向かって左がカウフマンさん。母と妹と共に
向かって左がカウフマンさん。母と妹と共に

真珠湾攻撃が起きた現地時間12月7日は日曜日。

軍幹部の父親と、母親、2歳下の妹と暮らしていたカウフマンさんは、家族みんなでいつも通りの朝を迎えようとしていた。そこに突然、爆弾が降り注ぐ。

パトリシア・ベリンジャー・カウフマンさん:
「父が叫びました。『これは訓練じゃない!訓練じゃないぞ!本物の攻撃だ!』と。 私たちは訓練に慣れていたので最初は遊び回っていました。すると突然、銃弾が窓やドアを突き破り、立っていた場所まで破片が飛んできたのです」

カウフマンさんは「ダンジョン」と呼んでいた自宅の広い地下室へ逃げ込む。そこには周囲に住む女性や子供たちも飛び込んできた。その後、辺り一帯は火の海となり、傷付いた兵士たちが次々と運び込まれるなど想像を絶する光景だったという。

逃げ込んだ地下室「ダンジョン」
逃げ込んだ地下室「ダンジョン」

パトリシア・ベリンジャー・カウフマンさん:
「油の燃えさかる海から兵士たちが這い上がって来ました。辺りは焼け焦げた匂いが漂っていました。誰かが「あの人を助けてやれ!」と叫んだので、這い上がって来た兵士を引っ張り上げるのを手伝ったのですが、全身の皮膚が垂れ下がっていてすぐに亡くなってしまいました・・。その後、ラジオからルーズベルト大統領が開戦を宣言する声が聞こえてくると、地下室にいた人たちはラジオの周りに集まって涙を流しながら聞いていました。2日後にようやく外へ出ると、飛行機は大破し、逆さまになっている戦艦もありました。辺りには至る所に亡くなった人たちが横たわっていて、飛行機のコックピットからぐったりとぶら下がって死んでいる日本人パイロットの姿も覚えています」

攻撃から一週間後、カウフマンさんは母と妹と共にアメリカ本土へ避難することになったがその時もまだ戦艦アリゾナからは煙が上がり、生存者を探すため船体に穴を開けるドリルの音が響き渡っていたという。

炎上する戦艦アリゾナ
炎上する戦艦アリゾナ

アメリカ人もあまり知らない「子供たちの真珠湾」

カトリーナ・ルクシェフスキーさん:
「自分が暮らしているこの家に、真珠湾攻撃の時にはどんな人が住んでいたのか知りたいと思ったんです」

そう語るのは、2013年から一時フォード島で暮らしていたカトリーナ・ルクシェフスキーさん。

カトリーナ・ルクシェフスキーさん
カトリーナ・ルクシェフスキーさん

フォード島の官舎は今も真珠湾攻撃当時の姿を残したまま使われていて、ルクシェフスキーさんも海軍勤務の夫とともにその官舎で暮らしていたのだが、その時、自分の家にかつて住んでいた子供たちが真珠湾攻撃を経験したことを知って衝撃を受け、どうしても彼らの話を聞きたいと思うようになったという。

地元の歴史に詳しい人の協力を得て、アメリカ各地に散っていた子供たちの居場所を突き止めていったルクシェフスキーさん。最終的に18の家族から話を聞くことができ、集めた証言を一冊の本にまとめた。その中には、攻撃当時14歳だったカウフマンさんの経験も記されている。

ルクシェフスキーさんがまとめた住民たちの証言集
ルクシェフスキーさんがまとめた住民たちの証言集

カトリーナ・ルクシェフスキーさん:
「この本を読んだ人に、真珠湾攻撃では軍人や男たちだけでなく、家族や子供たちが大変な思いをしたことを知って欲しいのです。戦争が幼い子供たち、10代の子供たちの人生に影響を与えてしまったことを忘れてはいけないと思います」

あの日、あの場所にいたのは・・・

そしてルクシェフスキーさんが本にまとめた住民たちの証言は今、デジタルアーカイブとしてインターネット上で公開されている。

協力したのは、これまで広島や長崎の被爆者の証言を立体地図に表示する取り組みを進めてきた、東京大学大学院の渡邉英徳教授だ。

真珠湾の地図の上に、証言者の顔写真や体験が表示されていて、当時どこに誰がいて何を見たのかが一目で分かるようになっている。また、写真の多くはAI技術などを使ってカラー化されていてより現実味を持って伝わってくる。

渡邉教授が制作したデジタルアーカイブ (https://1941.mapping.jp/)
渡邉教授が制作したデジタルアーカイブ (https://1941.mapping.jp/)

東京大学大学院 渡邉英徳教授:
「日本のように色々な街が焼け野原になることはなかったアメリカで、市民が空襲を受けていたというのはとても貴重な話だと感じました。それは日本の戦争体験者の話とつながっています。真珠湾は遠い場所で起きた過去の出来事と思いがちですが、デジタルアーカイブで地球スケールで見ると自分たちの生きている場所と地続きで感じられますし、地図や写真などがひとまとめになっているので、資料を断片的に読んだだけでは分からない全体像を見ることができると思います」

「色々な世代がマップを見て対話をしてほしい」と話す渡邉教授
「色々な世代がマップを見て対話をしてほしい」と話す渡邉教授

80年経った今、伝えたいこととは

14歳で悲惨な戦争に巻き込まれてしまったカウフマンさん。しかし取材の中で、日本を非難するような言葉を聞くことはなかった。

実はカウフマンさんには開戦前から付き合っていた、同世代の日本人姉妹の友達がいた。姉妹は駐米日本大使の娘たちだった。開戦後は、外交官一家であることから囚人のような扱いではないものの、ホテルに収容され捕虜となっていた。

日本に対する国民感情が悪化していく中、カウフマンさんの母・ミリアムさんは子供たちのためにと、姉妹とのピクニックを計画してくれた。戦争前と変わらず日本人と一緒に遊び親交を深めていったことで、日本を憎むような気持ちにはならなかったという。

日本人姉妹(右側2人)とのピクニックを楽しむカウフマンさん(左から2人目)
日本人姉妹(右側2人)とのピクニックを楽しむカウフマンさん(左から2人目)

パトリシア・ベリンジャー・カウフマンさん:
「日本人の友人一家が収容されているのを聞いた母が、なんとかして連絡を取り『何でも助けになるわ』と言ったのです。私たちは山の上にピクニックに行き、小さいバスケットにいっぱい入ったフライドチキンやゆで卵などを一緒に食べました。子供同士ですから戦争の話はしていません。それは本当に楽しい時間でした。今思うと、母がしてくれたことがどれほど素晴らしいことか分かります。“敵”とのピクニックを計画してくれたのですから。あの時点では戦地に行っていた父が生きているかも分からず、自分たちの家もひどい状況だったのに、母は本当に勇敢な人だったと思います」

今では息子や孫、ひ孫たちに恵まれたカウフマンさん。彼らには何度も真珠湾の経験を語ってきたという。80年経った今、カウフマンさんが伝えたいこととは。

パトリシア・ベリンジャー・カウフマンさん:
「戦争など誰も望んでいません。ただただ心が痛むものです。憎しみ合うのをやめて話をするべきだと思います。日本の人たちはアメリカが長崎や広島にした恐ろしいことに対してアメリカを非難しますし、日本は真珠湾でアメリカに対して同じようなことをしました。全てはそうして起こっているのです。人々がその事実をもっと理解し、お互いを思う気持ちを持つことができればいいと思います」

孫やひ孫たちに囲まれるカウフマンさん(手前中央)
孫やひ孫たちに囲まれるカウフマンさん(手前中央)

【執筆:FNNロサンゼルス支局長 益野智行】

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益野 智行
益野 智行

FNNロサンゼルス特派員。関西テレビ入社後、大阪府警記者クラブ、神戸支局、災害担当、京都支局などを経て現職。