2020年1月、豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号が、感染者を乗せて接岸するのと時を同じくして、中国・武漢から日本人800人をチャーター機で5回に渡り「救出」するミッションが行われていたのを覚えているだろうか。
この時避難した日本人たちは、その後ホテルや官公庁の宿泊施設で「待機」生活に入ったため、実はこのとき武漢がどんな状態で、800人がどうやって帰国したのかはほとんど伝えられていない。
この救出作戦に関わった外交官と、乗客への取材で、綱渡りだったこの作戦の一部始終が明らかになった。

「武漢に入れない」
1月20日ごろ急速に感染拡大した武漢市。23日には市民を街に閉じ込めるいわゆる「ロックダウン」が行われた。武漢市には日本の在外公館が無いため、武漢にいる日本人を救出するため、北京から外交官8人の精鋭部隊が送り込まれた。
彼らが最初に直面した問題は「どうやって武漢に入るか」だった。
市民の移動を封じ込めるため空港は閉鎖、市内の駅でも乗り降りできなくなるなど、公共の交通機関が使えない状態に。
北京から武漢は1200kmで東京から長崎の距離。近くの都市の空港を経由して、車で移動する方法も検討されたが、外交官ナンバーの車以外は武漢市に入れないことがわかり、大使館のミニバスで陸路17時間もかけて移動することになった。
武漢までの道は車の走行がほとんど無く、不気味な漆黒の中を進んだ。そしていよいよ武漢に入ろうとすると、最後の「関門」が現れた。

困難を極めた名簿作り
武漢入りした救出チームの外交官らが直面したのは、武漢市にいる日本人をどうやって把握するかだ。駐在員はともかく、旅行者などはいちいち政府の登録サイトに登録しない人も多く、実態の把握が困難だ。
このため、現地チームではなく、北京の日本大使館の最大で30人の後方支援チームがメールなどを使って調査した。また、現地に事務所があるJETROが日本人団体にSNSのグループを作るよう働きかけ、このミッションを助けた。
しかし、もともとの登録データと新たな情報との突き合わせにも時間がかかり、大使館員は連日文字通り昼夜を徹した作業に追われることに。

どうやって日本人を集めるのか?
調査の結果、武漢や周辺の湖北省に住む日本人で帰国を希望する人は800人以上。チャーター機の第1便に乗れるのはこのうちの200人程度だ。
まず、誰を最初に乗せるのか、そして、交通が麻痺し、移動の自由が無い市内からたった外交官8人でどうやって全員を集めるのか。
そこで思いついたのが「スクールバス作戦」だった。
日本人全員に集合場所を決め、そこを数台のバスで回る方法だ。しかし、あくまで机上での作戦であり、ぶっつけ本番で全員を乗せられるかは誰にも分からなかった。

乗客へのお知らせはギリギリ
中国当局の運航許可が下り、乗客に知らせが入ったのは、集合時間のわずか2時間前。
バスの内廊下は、慌ててかけつけた乗客のスーツケースであふれていた。さらにバス通りも閉鎖され、迂回や逆走をしながら何とか空港に到着。
しかし、空港前にも予想外の検問があり、1時間以上待たされることに。出航予定時刻が迫る中、すべてが時間との闘いだった。
予想外のトラブルで足止め
いよいよ出発という時間になり、予想外のトラブルが起きた。
日本より先に飛び立つ予定のアメリカのチャーター機の運航に遅れが出て、日本便も足止めに。暖房も止まっていて、凍える寒さの空港で、乗客たちは、待ちぼうけをくらうことに。
フライトを担当したANAの職員が軽食を配って歩くと、乗客たちからは意外な言葉が寄せられた。
こうした中、一日の勤務時間が厳しく制限されているチャーター機の機長は、焦りを隠せなかった。

世界に先駆け3機連続の飛行
その後、無事に離陸し、3時間後に羽田に到着した第一便。
日本はその後も残りの邦人を救助するために3日連続でチャーター機を運航した。このとき、武漢では30カ国がチャーター機の運航を求めていたという。
なぜ、日本は世界にさきがけて、これだけのフライトに成功したのか、そのカギは日中間の外交交渉にあった。

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コロナの1年を振り返りながら、ぜひご覧いただきたい。