「自民党でこんなに真っ直ぐで真面目な人がいるのかと思うくらい、非常に正直で真っ直ぐな人柄の総理だった」
福田康夫元総理大臣の死去を受けて、こう語ったのは小沢一郎元衆院議員だ。
小沢氏は2月の衆院選で中道改革連合から立候補して落選したが、その後も自らのグループ「一清会」の新たな拠点として東京都内に事務所を開設するなど、精力的に政治活動を続けている。その小沢氏は26日、記者団の取材に応じた。
福田氏は、森内閣と小泉内閣で官房長官を務め、第1次安倍内閣の後を受けて2007年9月から1年間、総理を務めた。衆院で7回の当選を果たしたが、2012年の衆院選には立候補せず、政界を引退していた。
その福田氏が22日に死去したことについて、小沢氏は「お元気だと思っていたので、突然の訃報に大変驚いた」とした上で、「福田総理とは過去のいきさつもあったので、本当によい人を亡くしたと残念に思っている」としのんだ。
福田氏との大連立交渉 小沢氏が回顧
2007年7月の参院選で、自民党は歴史的大敗を喫し、過半数を割り込み、参院では民主党など野党が多数を占める「ねじれ国会」となった。当時、新たに就任した福田総理と野党第1党の民主党代表だった小沢氏の間で、自民党と民主党の大連立構想が持ち上がった。小沢氏は当時の福田氏との交渉について次のように振り返った。
「僕の主張に対しても本気になって対応してくれた。『そのことについてもう一度考えてきますから、また会ってください』みたいな、本当に真面目で真摯な態度だった。いわば初めての語らいだったが、感激し、今でも感銘深く思い出している」
さらに、小沢氏は「連立内閣だから、具体的に重要なポストもお互いに分け合おうということも現実に話をした」と明かした。
しかし、この大連立構想は、小沢氏が民主党内で諮ったものの、幹部からは反対論が噴出し、頓挫した。小沢氏は当時の状況について次のように回顧した。
「あの時はうちの民主党の方がみんな反対だった。僕も民主党に入って新参者だったから、我を通すわけにはいかず、みんな反対なら仕方ないと諦めた。民主党という党から言っても、実際に政治の運営をしたことがないわけだから、連立の中で学んで、それぞれの議員の地元の人のためにもなると、一石二鳥、三鳥だと僕は判断した」
そして、小沢氏は「後になって、あの時連立していればよかったとみんなが言っている。事が過ぎてから言ったって意味がない」と悔しさをにじませ、「あの時、連立を組んでいたら、その後の日本政治の行方、あり方は変わっていたのではないかと今でも思っている」と語った。
「話を持ちかけられた」 仲介役は…
これまでにも小沢氏は大連立構想を振り返ったことがある。それは2024年12月19日、読売新聞グループ本社代表取締役主筆を務めた渡辺恒雄氏が亡くなった際だ。小沢氏は次のように明かしている。
「福田総理から連立の話を持ちかけられた。その仲介役みたいなことをしてくれたのが渡辺さんとその知り合いの方だった」
そして、小沢氏は渡辺氏を追悼する中で、次のように悔しさをにじませた。
「今でもあの時、大連立をやっていればもう少し立憲民主党もきちんと政党らしい政党に成長できたのではないか。その意味では残念だ」
当時、小沢氏に近い関係者への取材の中で、大連立構想を最初に聞いた時には筆者も驚いた。しかし、もし実現していればその後の民主党政権はどうなっていたか。
当時、小沢氏に近い関係者が「小沢氏の考えが正しかったかどうかは10年後20年後に分かる」と悔しさをかみしめていた様子を思い起こす。
また、後年、小沢氏と距離を置く関係者の1人も「小沢氏が大連立構想を持ち帰ってきた時に、党内で協議したが、自分は反対した。しかし、今振り返ると、小沢氏の判断は正しかったのかもしれない」と漏らしていた。

