「天ぷらそばの天ぷらが13枚」「ミックスフライにはうどんまで付いてくる」――鹿児島県曽於市のJR財部駅舎内にある食堂「桂庵」は、その圧倒的なボリュームで地元客を引きつけてやまない。そのすべての料理を作るのは、今年90歳になった料理人・後藤一幸さんだ。60歳の定年後に始めた食堂を、長年切り盛りする男の思いとはどんなものか。
「これが戦闘服です」――朝6時から仕込み、90歳の現役料理人
後藤一幸さんは毎朝、まずスマートフォンでニュースをチェックする。それが日課だという。そして「これが戦闘服です」と言いながらエプロンを身につけると、朝6時からうどんとそばを仕込み始める。
「手作りが一番間違いがないと思う」
飲食チェーンの営業マンとして長年働いた後藤さんが食堂を始めたのは、60歳の定年後のことだ。現在の場所、JR日豊本線・財部駅の駅舎内に移転したのは約20年前。以来、娘の奈津代さん、孫の美里さんとともに「チーム一幸」で店を切り盛りしてきた。
孫の美里さんはこう話す。「すごい努力家です。頑張り屋さんです。60歳で仕事を定年してから始め、90歳まで働き続けているので尊敬しています」
天ぷら13枚、うどん付きミックスフライ――「腹一杯食べるのが人間の本能」
桂庵の最大の特徴は、その料理の量だ。「ざるそば」は麺が山盛りに盛られ、常連客は「いつもですよ、いつも」と当たり前のように笑う。天ぷらそばを注文した客が天ぷらの枚数を数えると「6、7、8…13かな」という結果になった。それでも「私は食べますね」と常連は言い切る。
店のおすすめ「ミックスフライ」は4種類の揚げ物が大皿いっぱいに乗り、ご飯に加えてうどんまで付いてくる。食べきれない客も多いため、メニューには「持ち帰り用の容器」の案内まで掲載されている。
なぜここまで量を多くするのか。後藤さんはこう語る。「僕は小さい頃にものを食べてないからね。皆さんにたくさん食べてもらおうということと、腹一杯食べるのが人間。本能ですからね」

戦中・戦後の食糧難を経験した世代だからこそ生まれた、食への哲学が桂庵の大盛りスタイルを支えている。
物価高騰に揺れながらも、変わらぬ「なるべく安く」の精神
ただし、昨今の物価高騰は桂庵にも影響を与えている。後藤さんは率直にこう明かす。「オープンした頃は、安かったからたくさん入れられたけど、最近ちょっと減らしているんですよ。これでも。なるべく安くお客さんに出したいけど、これだけ物価が上がるとメニューを2カ月に1回変えないと、どうにもならない時期だったからこの半年は」
それでも大盛りのスタイルは崩さない。安く、たくさん食べてもらいたいという姿勢は、30年間一貫している。
駅舎内なのに「営業時間に電車が1本も来ない」
桂庵には少し不思議な事情がある。JRの駅舎の中に店を構えているにもかかわらず、客のほぼ全員が車でやってくる地元の人々だ。理由を娘の奈津代さんに聞くと、思わず笑ってしまうような答えが返ってきた。「ちょうど営業時間に電車が来ないんですよ。営業時間に1本も電車がないので来ないですね」

開店は午前11時、オーダーストップは午後1時半。定休日は水曜日。短い営業時間の中で後藤さんはリズミカルに大量の揚げ物をこなし続ける。
「社会に貢献できる間は貢献したい」――90歳の矜持
90歳という年齢を前に、引退を考えることはないのだろうか。後藤さんは静かに、しかしはっきりと答える。「本当は90歳にもなれば家でじっとしていたいけど、社会に貢献できる間は貢献したいと思っています」
そして笑顔でこう続けた。「チームジャパンでやっていますよ!チーム一幸。身内だけのチームジャパンでやっていますから」
定年後の30年間、後藤さんは厨房に立ち続けてきた。物価が上がっても、年齢を重ねても、お客さんの笑顔のために今日も朝6時から仕込みを始める。財部の小さな駅舎に灯り続ける大盛り食堂の明かりは、これからも多くの人の心を引きつけていくだろう。
【動画で見る▶【料理人は90歳】山盛り定食の食堂「おなかいっぱい食べてほしいから」 鹿児島・曽於市 】

