特集は大正時代の雰囲気を、今に伝える「看板建築」です。看板建築は、店舗などの正面を「洋風」に仕上げた建物で、長野県内にも多く残っています。その魅力を「名付け親」にも聞きました。
「では、行きましょう」
松本の市街地で開催されたツアー。建築家・川上恵一さん(ココブラ信州)が案内したのは…。
建築家・川上恵一さん(ココブラ信州):
「これも看板建築。だんだん分かるようになりますから」
看板建築は、木造の店舗などの正面をモルタルやタイルで洋風に仕上げた建物のこと。大正から昭和にかけて全国で盛んに建てられました。
建築家・川上恵一さん(ココブラ信州):
「屋根はこうなって(傾斜がついて)います。だけど正面は立ち上がっている。つまりビルにしているんです。変な看板をつくるより印象に残るでしょ。安くて効果的なビルディングタイプ」
正面は洋風、それ以外は和風。これが看板建築の特徴です。誕生には、歴史的な背景がありました。
建築家・川上恵一さん(ココブラ信州)
「関東大震災でみんな壊れてしまった。なんとか商売を始めないといけないということで、看板のように立てて商売を始めたのが始まり」
震災後、東京の焼け野原にはバラックの商店街ができました。最初はトタンの粗末な建物でしたが、店主たちは「正面だけでも」と装飾を施すようになりました。それが看板建築の始まりです。
当時、復興のため、全国各地の大工が東京に集まっており、看板建築を吸収してそれぞれの地元で広めたということです。
建築家・川上恵一さん(ココブラ信州):
「物がなくてなんとかやるぞという思いとか、僕らはそのマインドを学ばないといけない。大正のころはロマンがあったからそういう人の思い入れや職人さんの技が非常に魅力的」
老朽化や再開発などで数は減っていますが、それでも松本の市街地には今も100軒以上、残っているということです。
その中で川上さんが「横綱級」と評価しているのが、中町通りの「ミドリ薬品」です。昭和2年(1927年)の建設で、手すりや複雑な装飾が施されています。
建築家・川上恵一さん(ココブラ信州):
「いっぱい模様をつけて、リースとか、薬(のデザイン)とか、石が積んだようになって。ミドリ薬品は緑色にして、面白いじゃんね。技と心と」
当時の店主が東京で見た建物に憧れ、2年の歳月をかけて洋風に設えたということです。
ミドリ薬品の店主:
「私のおじいさんに当たる人が、建物を建てるのが好きで、だいぶその意見が入った。月桂樹の葉で、花房飾りという飾りで、たぶんこれの見本も日本橋あたりで見たと思う」
この日、30軒ほどの看板建築をめぐった参加者は…。
参加者:
「たくさんあるのでびっくりした。いろんな模様がすてきでよかったです」
「松本はなまこ壁ばかりのイメージだったが、路地を通って面白かった。レトロでいつまでも残ってほしいなと」
看板建築の「名付け親」にもその魅力を聞きました。
看板建築と命名・藤森照信さん:
「看板みたいに表面をバンッとしているので名付けた」
建築家で建築史家でもある藤森照信さんは1975年、仲間と調査研究をしてその特徴から看板建築と命名しました。
藤森さんは、当時の自由な雰囲気を感じて欲しいとしています。
看板建築と命名・藤森照信さん:
「中は伝統的で表面だけはヨーロッパ風。建築家がやったわけではなく、商店主などが好きにやった、その自由さや楽しさがある。材料と形が面白い。素人がやっているので、独特な稚拙な感じがほほ笑ましい」
看板建築は街の歴史も物語っています。諏訪市は比較的、規模の大きな看板建築が残っている地域です。
建築家・川上恵一さん(ココブラ信州):
「上諏訪駅から南への甲州街道沿いにいっぱいある。規模も質も高い、ロマンを感じる」
かつて製糸業で栄えた諏訪。財力のあった店が続々と大きな看板建築を建て、現在も50軒ほどが残っています。その代表格が三村貴金属店です。1928(昭和3)年完成。
中央に東京駅の駅舎に似た「ヴォールト屋根」があり、内側には三村家の家紋とアルファベットが並んでいます。南隣の「ブライダル染花みむら」と共に、国の有形文化財に登録されています。
建築家・川上恵一さん(ココブラ信州):
「銀座や神田とか東京のまねが特に、諏訪から近いので。ハイカラ建築を求めて多かった。予算もロマンもあった。新進気鋭があった」
時代を超えて各地に残る大正ロマン。川上さんは、当時の店主の思いや大工の心意気を想像しながら、看板建築をめぐってみてはと話しています。
建築家・川上恵一さん(ココブラ信州):
「街は生きているから、ある時代の流行や、思いはそこに記憶として残っている。その中の1つとして看板建築があるなと見てもらえれば」
(画像:「看板建築」)