東日本大震災の津波で被災した建物を個人で保存し、語り部の活動を続けている男性が岩手県陸前高田市にいます。今、その15歳の娘が父の背中を追い、語り部の道を歩み始めています。
陸前高田市の更地が広がる地域に佇む米沢商会ビル。東日本大震災で被災し、遺構として保存された建物です。
米沢多恵さん
「(店の)商品で足りないものがあったから、倉庫から取りに行っていた」
8月、このビルで語り部の練習をする高校生・米沢多恵さん(15)の姿がありました。
まもなくこの場所を東京の大学生が訪れることになっていて、語り部の先輩である父・祐一さんからアドバイスを受けていました。
父・祐一さん
「別に俺も台本があって話しているわけじゃない。あっと思い出した時に、思い出したことを言えばいいと思うよ」
語り部を始めて半年余り。多恵さんにとっては、一回一回がいわば真剣勝負です。
米沢多恵さん
「津波っていうのは怖いものだし、油断していてはいけないとか、防災に対する意識を高めていってほしいと伝えたい」
東日本大震災で、陸前高田市では岩手県内で最も多い1807人が犠牲となりました。
津波は海岸から1km以上離れた米沢商会ビルにも到達し、建物の中にいた祐一さんは屋上の煙突に避難して、当時の様子を撮影していました。
父・祐一さん(2014年4月)
「まず、この建物に助けられた。自分は助けられたと」
包装資材を販売する会社「米沢商会」は、震災後、かさ上げされた地域に移転しました。
しかし祐一さんは、被災した米沢商会ビルについて、個人で維持費などを賄い保存することを決定。教訓を伝え続けるために必要と考えたのです。
祐一さんは語り部活動を震災の半年後から継続し、これまで1万人以上に伝えてきました。
「忘れてほしくない、津波は怖いんだと。とにかく教えたい」と話していた祐一さん。(2018年2月)
その祐一さんの姿をそばで見つめてきたのが、多恵さん(当時7歳)でした。
父・祐一さん(2018年2月)
「ここまで来たの津波が。だから多恵ちゃんなんて海の底だよ」
当時7歳の多恵さんは、「(津波は)怖いんだなと思った。津波が来たら山とかに逃げればいいんだなって思った」と話していました。
震災発生のひと月前に生まれた多恵さん。
当時の記憶はありませんが、祐一さんの影響で防災への意識を高め、小学3年生の時には、市から「キッズ防災マイスター」として認定を受けました。
高校生となった今、語り部に取り組んでいるのは父の体験をより広く伝えたいとの思いからでした。
米沢多恵さん
「(父が)年齢とかで話せなくなる日がいつか絶対来ると思う。(父の体験を)誰も知らなくなっちゃうっていうのが悲しいなって思って。自分が伝えていけば、父の体験をまだ先の震災を知らない人たちにも伝えられると思って」
多恵さんはこの日特別な思いを抱いていました。
語り部活動はこれまで二人三脚で行ってきましたが、初めて、核心部分とも言える父の震災当日の体験について伝えることを任されたのです。近い将来の独り立ちのためでした。
米沢多恵さん
「初めて話す部分もあるので、ちょっと不安ではあるけど、頑張りたい」
父・祐一さん
「きちんと言ってくれるんじゃないかなと期待もあるし不安もある。多恵なりの言葉で話してほしい」
この日は、早稲田大学の学生ら6人が訪れました。
米沢多恵さん「(小声で)どう連れていけばいいの?」
父・祐一さん「お前がいいようにやってくださいよ」
はじめはやや緊張した様子だった多恵さん。
米沢多恵さん
「私と父が話すことを昔の話じゃなくて、自分だったらどうしていたとか、自分事と捉えて聞いてほしい」
語り部として思いを込めながら言葉を紡いでいきます。
米沢多恵さん
「震災が起きた時はこの高さぐらいまで全部がれきと砂と泥で埋まっていて、ボランティアの方々と1カ月かけてここまできれいにしました」
この日、特に力を込めて語ったのは、地震後、すぐには高台に向かわなかった父の状況でした。
米沢多恵さん
「そんな(津波の)ことは頭になくて『お客さんは大丈夫かな』とか『店の片付けしなきゃ』とか、1個のことに集中してたので。『気仙川を津波が超えました、市民の皆さんは至急避難してください』っていうのを、防災無線は言っていた。そこで初めて、父の頭の中に“津波”っていうワードが出てきて『え?津波来てるの?』みたいな感じになった」
多恵さんは地震の後、すぐ避難することがいかに大切かを伝えました。
早稲田大学2年生
「映像だけなのではなく、本人からの話を聞けたのはとても貴重な体験となった」
(東京都出身・大学4年生正川修さん)
早稲田大学4年生
「その土地に生まれた若い人が語り継いでいくことは、人々の心に深く刺さるものではないか」
語り部を終えると多恵さんはほっとした表情を見せました。
米沢多恵さん
「私の拙い説明でもメモ取ってくれて、うれしかったので印象に残っている」
父・祐一さん
「『そうそう自分はそういう感じだった』『そういうふうに思っていた』全くその通りに娘が言ってくれた。そうそうそうっていう感じで聞いていた」
多恵さんには、まだ先に目指す姿があります。
米沢多恵さん
「高校2年生に上がった頃には全部話せるようになっていたい。きょうよりももっと伝わりやすいように、つっかえたりしないように話したい」
より多くの人にあの日の記憶を伝え未来の命を守るためにーー。15歳の語り部の挑戦は続きます。
