8月15日は「終戦の日」。
戦後81年の月日を経て、実際に戦地に赴いた記憶を語り継ぐ人も年々減少している。
こうした中で、島根・津和野町に住む101歳の元日本兵が過酷な戦争体験を語り継いでいる。
今もなお鮮明に残る戦時中の悲惨な記憶…後世に伝える活動に取り組むその思いを聞いた。
「戦争はまさに人殺し」心に秘めていた思いを意を決して語る
8月2日、津和野町の公民館で戦争体験を語ったのが村上進さん101歳だ。
元日本兵・村上進さん(101):
(戦争から帰ってきた人は)自ら進んで戦争の話をするのは慎んでいる。
戦争というのは、まさに人殺し。
戦地では当たり前のこと、平和の社会で人殺しの話はできません。
きょうは改めて思いを決して話をする。
村上さんは1937年12月、19歳の時に陸軍歩兵第二十一連隊、通称・浜田連隊に入隊。
満州国に渡り、敵国の無線通信を傍受する通信兵として従軍した。
しかし戦況が悪化する中、ソ連軍が攻め込んでくる可能性が高まり、任務が大きく変わった。
終戦間際に命じられた決死隊 「死の覚悟」固めながら訓練
村上進さん(101):
初年兵30人ばかりの「決死隊」というものを組織した。爆薬が入った箱を抱えて、進んでくる戦車の中に潜り込む。当然戦死する。この訓練を始めた。
自らの命を顧みず敵陣に特攻する「決死隊」。
選ばれた時の心境については、「大きな一つの名誉なんです。数多の兵隊の中で決死隊に選ばれるのは大きな名誉。私もその一人でした」と語った。
決死隊に選ばれた隊員は、退路を断つため荷物をすべて処分。
訓練は2人1組で行われ、1人が囮役となり、もう1人は戦車に見立てた荷車に素早く潜り込むという練習を繰り返した。
段々と「死の覚悟」も固まったという。
村上進さん(101):
当然、覚悟ができているわけです。
別段何も思いもせずに、意識せずに。
私一人ではない。
全員がそういう思いを持っていた。
“デマ”では…にわかに信じられなかった「玉音放送」
しかし、ソ連軍の侵攻よりも前に8月15日の「終戦の日」を迎えた。
通信機をラジオに組み替え「玉音放送」を聞いたが、にわかには信じられなかったという。
村上進さん(101):
デマ放送だと。
私だけではなくそこにいる全員がそう思った。
敵国の「攪乱作戦」と考え、敗戦を信じることなく決死隊は訓練を続けた。
数日後、日本軍の本部から正式なルートで敗戦が伝えられると…。
村上進さん:
部隊の解散式があって、軍刀、軍旗、鉄砲を積み上げたのを見た時に全員が泣いた、涙した。
(涙の理由は)情けない…一にも二にも情けない。私たちは決死隊を組むほど覚悟を決めていたにも関わらず、何とも情けない。その当時はそうです。今思えば別の思いもあるが当時としては…。
終戦後も続いた悲劇…「シベリア抑留」過酷な環境を生き抜く
しかし、村上さんの悲劇は続いた。
終戦が分かり、日本に帰れると思った矢先、ソ連軍の捕虜としてシベリアに連行、「シベリア抑留」だ。
極寒の環境で満足な食事も与えられず、カザフスタンの炭鉱で苛烈な労働を強要させられたという。
村上進さん(101):
決死隊に選ばれたこともあって、一度は死を覚悟した身ですから、別段落胆はなかったです。
シベリアに抑留された60万人のうち、6万人が犠牲になったとされる過酷な環境の中、耐え忍ぶこと6年…帰国を果たしたのは1951年だった。
「命ある限り…」戦争体験を語り継ぐ
100歳を超えてもなお定期的な講演を通じて、ありのままの戦争体験を伝え続けている。
村上進さん(101):
(戦時中は)個人が無視された社会の中での生活。
今は極楽、あのような戦時中の体験をした人はみんなそういう思いを持っている。
世の中に恩返しをしたいという思いを常に持っているので、できることはなにかと考えると戦前・戦後の話をすることだと考えている。
村上さんは、“戦争を知るもの”として…命ある限り悲惨な記憶を未来に語り継ぐつもりだ。
(TSKさんいん中央テレビ)

