「目標がないまま泳いでもおもしろくない」97歳の挑戦
事故で膝を壊し、心臓の持病が悪化し、白内障に腎不全。
入退院を繰り返しながらも、木村悦子さん(97)はプールから離れなかった。
「目標がないまま泳いでもおもしろくない」
そう考え、選んだ“97歳の挑戦”は一度も練習したことのない50メートルの長水路。
6月14日、広島市で開かれたマスターズの公認大会で世界新記録を達成した。
畑を耕しバイクで走り 世界を泳ぐ
島根・出雲市多伎町に、木村悦子さんは一人で暮らしている。
20年ほど前に夫に先立たれて以来、ずっとそうだ。
自宅の畑では耕運機を自在に操り、収穫した野菜で自炊する。
移動には、相棒のミニバイクをまたぐ。
97歳の日常と、驚くほど活動的だ。
部屋には、壁を埋めるほどの賞状とメダルが飾られている。
「これが世界記録の分で、あっちがロシアの世界大会の分」と木村さんは指さす。
水泳を本格的に始めたのは60歳のころ。
それから37年間、国内外の大会で記録を積み上げてきた。
2024年に愛媛県で開かれたマスターズ大会では、女子平泳ぎ95〜99歳の部で、50メートル・100メートル・200メートルの3種目すべてに世界記録を樹立。
“スーパーおばあちゃん”と呼ばれるゆえんだ。

半月板損傷、心臓病、白内障、腎不全…「もう泳げんようになるかも」
しかし2025年1月、その挑戦は一度、暗転する。
相棒のバイクで転倒し、右ひざの半月板を損傷した。
歩くことすらままならなくなり、「もう泳げんようになるかもしれない」と木村さんは先の見えない不安に襲われた。
追い打ちをかけるように心臓の持病が悪化。
白内障、腎不全。
体のあちこちに不調が重なり、入退院を繰り返す日々が続いた。
それでも、プールから離れることだけはしなかった。
今も出雲市内のプールに週1、2回通い続けている。
「いきいきとしたような気がする。やっぱり自分の好きなことだから」と木村さんは言う。

「長水路、やってみようかな」木村さんが選んだ舞台は“未知”の世界
体がボロボロでも泳ぎ続ける木村さんが次に目をつけたのが、「長水路」への挑戦だった。
これまでの世界記録はすべて「短水路」、つまり25メートルプールで出したものだ。
50メートルプールの「長水路」は、コースの距離が2倍になるだけでなく、折り返しのターンが使えない分、全く別の競技と言っても過言ではない。
「目標が無いまま泳いでも面白くない。短水路ばっかりで、長水路をやってみようかなと思って」…97歳にして、木村さんはまだ未知の世界を探していた。
狙うのは、カナダの選手が持つ世界記録“1分38秒21”。
大会直前の練習でタイムを計測すると、“1分27秒”を記録した。
すでに10秒以上も上回っている。
JSS出雲の川上浩之コーチも確信を持って「今のタイムで確信ですね。大丈夫でしょう。ひょっとしたら世界記録を抜けるかもしれない。ぶっつけ本番です」と言った。

「心臓が苦しい」本番直前、体に異変 挑戦はぶっつけ本番
6月14日に広島市で開催されたマスターズ公認大会。
参加者は800人を超える。
ところが、練習用プールでアップを始めた木村さんの様子が、すぐにおかしくなった。
「きつい…心臓が苦しい。慣らさないといけない」…心臓への負担が予想以上に大きく、何度も泳ぎが止まってしまう。
50メートルを泳ぎ切ることができないまま、本番を迎えることになった。
同じレースに出場するのは、ほとんどが70代から80代。
木村さんは最年長だ。
しかも、50メートルプールでの練習経験はゼロ。
まさにぶっつけ本番の挑戦だった。

場内に響いた“世界新記録”のアナウンス
スタートを告げる合図とともに、木村さんは水に飛び込んだ。
出だしは順調だった。
しかし、中盤から疲れが出たのか、徐々にペースが落ちる。
それでも木村さんは止まらなかった。
場内アナウンスが「ただいま第9レーンを泳ぎました木村さん、“1分26秒45”は95歳区分の世界新記録です」と告げた。
従来の世界記録を10秒以上縮める、圧倒的な更新だった。

目標があるから輝ける “スーパーおばあちゃん”の終わりなき挑戦
世界記録を塗り替えた直後、木村さんは「本当にこれで安心して”三途の川”へ…今度は”三途の川”だけん」と言って笑った。
満身創痍で挑んだ挑戦をやり遂げた安堵と、97年間を生き抜いてきた人間の飄々とした強さが、その一言に凝縮されていた。
ただ、これで終わりになるかどうかは、誰にもわからない。
目標を見つけた瞬間から輝き始める木村悦子さんのことだ。
次の目標を定めて、またプールに向かう日が来るかもしれない。


