海岸につながる静かな兵庫県明石市の朝霧歩道橋。
2001年7月21日「夏祭り会場」へのメインルートとなっていた長さ100mの歩道橋は異常な混雑となり、身動きが全く取れない状況になった。
事故直前の状況をとらえた映像では、混雑を知らせるアナウンスは聞こえるものの、人を規制する動きは確認できない。
宇宿雄太さん。
あの日、混雑に巻き込まれた1人だ。
友人と一緒に夏祭りに向かう途中だった。
当時の状況を「圧力が四方八方からかかっているという状況」だったと話す。
■25年前冬に取材 その時に語った“極限の状態” 「5分で数歩」
歩道橋で宇宿さんがとった行動を25年前の冬に取材していた。
当時18歳。宇宿さんは祭り会場に行くために歩道橋に入った際の状況を「初めの頃(歩道橋に入った当初)は人は混んでなかったんで、まっすぐ普通に進むことはできたんですけど」と説明する。
人の流れにあわせて進みましたが、状況は変わる。
宇宿雄太さん(2001年 当時18歳):このままもうちょっと我慢したら先に進むことができるやろうみたいな雰囲気があったんですよ、でもその雰囲気がガーって変わって…。
(人が)ぎゅうぎゅうで、流れって言っても、ほんまに5分で何歩という感じで全然進まなかった。

■意識がもうろうとする友人 後方の親子から助けを求める声でとった行動 すぐ近くでは11人が亡くなる“雑踏事故”
前方では人の流れが止まっているものの、次々に誘導され入ってくる人で、引き返すこともできなくなる。
この異常な混雑状況の中、一緒にいた友人や、すぐ後ろで男性が抱いていた子どもの意識がもうろうとなってきたことから、宇宿さんはある決断を実行に移す。
宇宿さんは人込みから上がろうとしたものの、体が圧迫され全然抜けず、1回上がって下にまた戻ろうとしても浮いたままだったという。
それでも…
宇宿雄太さん(2001年12月取材):(周囲の)人の膝とか、『ごめんなあ』とか言いながら借りて、やっとの思いで抜けるっていう感じですね。
周囲にいた人の助けをかりて歩道橋の屋根によじ登り、“救助活動”にあたったのだ。
宇宿雄太さん(2001年12月取材):僕が初めに(屋根に)上がって、後ろにいた子供を、本当に息が止まりそうだったので、呼吸困難で。一番先に助けようと思っていたので、最初にあがってその子を上から引き上げた。
その後、別の子どもや一緒にいた友人を引き上げる。
宇宿さんがいた数メートル先では大規模な転倒事故が発生していた。
子供9人とお年寄り2人が命を失い、247人が重軽傷を負った。
死因は全員「圧死」だった。

■あの日の経験から見つけた“生きる道” 消防士に
宇宿さんはその経験から自分の生きる道を選ぶ。
それは消防士。
大学卒業後、一度は企業に就職したものの、あきらめることができず勉強を続けた。
宇宿雄太さん(43):(助けた子供の親から)感謝の言葉を頂いたという印象、ありがとうだけではないと思うんですけど。
人の為に何かをする、そのことに対して感謝の言葉をもらう。こんな素晴らしい仕事はないと。そんな仕事に就けたらいいなと思って見つけたのが消防士。
2008年に採用され、多くの後輩ができた今も訓練や学びは続く。
東日本大震災では捜索活動のため、伊賀市からの“第一陣”として被災地に入った。

■「生きる道を決めた場所」歩道橋へ そこに「感謝を伝えたい」人物が…長年の“心配”も
20年以上、歩道橋を訪れたことがなかったという宇宿さん。
“生きる道”を決めたその場所を訪れる。
宇宿雄太さん:当時の印象とは違うというか…もっと広いイメージだったのが狭く感じた。
この日、宇宿さんに会いに来た男性がいる。
事故の遺族・下村誠治さん。長い間、「直接お礼を言いたい」と思っていた。
下村誠治さん:ありがとう、何人か上げてくれて、すごい感謝しています、ああいうことがなかったら、この事故やってられなかったけど、みんないろんなことで減災や防災につながることをしてくれた…感謝しています。
宇宿雄太さん:いや、とんでもないです。
ずっと心配していたことがあった。
下村誠治さん:(宇宿さんが)誹謗中傷受けていないかな、ってそれだけが心配で…。

■若者たちの“懸命の救助活動” 警備の問題指摘されるなか警備が会社などの説明は…
実はあの日、動けなくなった人たちを助け、人の流れを止めようとした人が宇宿さんのほかにもいた。
事故現場付近にいた男性(2001年取材):僕らのところにいた若い子らは上に上って一生懸命110番してくれたり、あるいはどっかのお父さんから子供を腕引っ張て助けたとか、そういうのしかなかった。
事故現場付近にいた女性(2001年取材):うちの息子に上ってくれて、もう2人があがってくれて、朝霧駅のほうに『バックしてください』言うてやっと動いた。
しかし、事故の数日後に警備会社が開いた会見では…。
会見に出席した警備員(2001年7月):もう、人の山です。その上になぜか男の人が立っているんですね。だれ彼構わず、背中から頭からよじ登って、人の頭に足を置いて上っているんです。
当時、警備の問題が指摘されるなか、警備会社と警察は「暴れる茶髪の若者がいた」と説明。
下村さんは当時この内容が報じられているのを知り「僕らが見てたことと違うことが報道で先行して、それが警察や市(の説明)であるとか、警備会社も含めてーそれが先行してしまうと、真実がもう本当に曲がってしまうという危惧を最初に抱いた」と振り返る。

■「花火きれい」 混雑の中で最後の言葉を…失われた幼い命
下村さんは次男・智仁ちゃんとともに事故に巻き込まれていた。
1か月後に3歳の誕生日を迎えるはずだった智仁ちゃん。
混雑のなかで「花火きれい」と言ったのが最期の言葉になった。
「1平方メートルに15人」という異常な混雑で動くことすらできなかったあの日。
誰かの行動によって起きた事故ではない。
下村さんは事故原因の解明を訴えるために、告別式の翌日に会見を開き、真相解明を訴えた。
下村誠治さん:(2001年7月 会見より)
:警察に電話して、何もしてくれなかったということは今回一番印象に残っている。見殺しというか、見んと放っていた。

■“被害者攻撃”「連れて行った親が悪い」 遺族は本当のことを明らかにする戦いへ
その一方で、警備会社などの説明から、歩道橋の屋根に上がった人だけでなく、その場にいた人に対しても「無茶な行動をした」、「危険な場所に子供を連れて行った」という声が強まることに。
下村さんは名指しで、責められることも。
子どもを連れて行ったこと、事故後矢面に立ち会見に臨むことを批判する言葉が記されたカレンダーの裏紙が事故現場、しかも献花台のすぐ上に貼られていたのだ。
“攻撃”にさらされても、遺族たちとともに、警備会社や警察などを相手に本当のことを明らかにするために戦い続けることになる。

■司法が明言 子供たちと一緒に行った家族に「なんの落ち度もない」 異常な混雑を生んだ“ずさんな警備”が原因と認定する判決 それでも…
そうして勝ち取った民事訴訟の判決では、事故は“異常な混雑”そのものが原因で、ずさんな警備が招いたと認定される。
そして、警備員に誘導され子供たちとともに歩道橋に入り、混雑に閉じ込められた家族には「なんの落ち度もない」と明記されたのだ。
この判決を受け、会見に臨んだ下村誠治さんは「法廷の場できっちり認められたということは、我々にとって生きていくうえで強い後押しになった判決」と話し、安どの様子を見せた。
それでも、行った人を責める声は今も根絶されることはなく、25年前とは比べ物にならない早さで広がることもある。
下村誠治さん:優しく声をかけてくれる人が増えてきたのも事実。最初に誹謗中傷があった時に遺族で集まって言ったのは誹謗中傷は減らない。だから、一人でもこの事故を理解してくれる人が増えるようにやっていこうということを目標にやってきた。
事故から25年。ただひたすらに“真実”を求める日々だった。

■真実を求め続けた父親 救助活動した“若者”に伝えた感謝と思い
この場所で大きく変わった人生がある。
下村誠治さん:“茶髪説”(「茶髪の若者が暴れた」という情報)、それがスタート。そこから25年、あの細かった彼がこれだけきっちり体力をつけてこういう素晴らしい仕事をしてくださっているというのは非常にうれしく思うしね、感謝していますわ、その時のことも。怖い思いさせてごめんね。
25年前救助活動をした宇宿雄太さん:安全とか安心とかという部分の追求を献身的に行動されているということがすごい尊敬する、起こってしまった後は、我々消防で最小限に抑えるというところをこれからも磨き続ける。
25年のそれぞれの歩みはこれからも続く。


