米国は2026年、建国250周年を迎えた。1776年7月4日、独立宣言が採択されてから四半世紀ならぬ四半千年。ワシントンでは「America250」の祝賀行事が開かれ、全米各地で建国を祝う催しが続いている。
しかし、その祝祭の陰で発表された一つの世論調査が、いまの米国社会を象徴している。「国を立て直すためには、暴力に訴える必要があるかもしれない」。この問いに対し、37%の米国人が「そう思う」と答えたのである。
もちろん、これは「南北戦争が起きる」と答えたわけではない。しかし、民主主義国家で3人に1人以上が、政治問題を解決する手段として暴力を容認し始めているという事実は、それだけで衝撃的である。建国250周年を迎えた国が、なぜここまで分断されてしまったのか。
建国時から続く対立と分断
実は、アメリカは建国以来、一度も「一つの国」だったことはない。
独立宣言に署名した13植民地は、それぞれ異なる宗教、経済、文化を持っていた。ニューイングランドのピューリタン、中部のクエーカー、南部のプランテーション地主たちは、国家の姿について全く違う考えを抱いていた。
建国の父たちも、連邦政府の権限や奴隷制度をめぐって激しく対立した。憲法は全会一致で生まれたのではない。奴隷制度の廃止を先送りし、州の権利を認めるなど、数々の妥協を重ねてようやく成立したのである。
その矛盾は、やがて南北戦争として爆発した。60万人を超える犠牲者を出した戦争は、奴隷制度を終わらせ、合衆国の分裂も阻止した。しかし、人種や地域、価値観の対立まで消し去ることはできなかった。
そして250年後の今日、その分断は新しい姿で現れている。共和党と民主党は、政策だけでなく、宗教、教育、居住地、さらには見ているニュースまで異なる「二つのアメリカ」を形成しつつある。
SNSのアルゴリズムは怒りや対立を増幅し、人々は自分と同じ意見ばかりを目にする。相手を説得するよりも敵視する政治文化が広がり、「文化戦争」という言葉さえ日常的に使われるようになった。
政治的暴力が日常化する危険
今回のマリスト研究所の調査でも、その深刻さが浮かび上がった。
建国の理念から「大きく離れた」と答えた人は47%、「ある程度離れた」を含めると83%に達した。82%は「民主主義は深刻な脅威にさらされている」と考えている。そして37%は、「国を正しい方向へ戻すには暴力も必要かもしれない」と答えた。
これは1861年のような新たな南北戦争が明日起きるという意味ではない。現在の米国には、州が連邦から離脱し、正規軍同士が戦う条件はほとんど存在しない。しかし、多くの政治学者は、もっと別の形の危機を警告している。散発的な政治テロ、暗殺、武装した民兵組織、選挙をめぐる暴力――。民主主義を一気に崩壊させるのではなく、政治的暴力が少しずつ日常化していく危険である。
それでも、この調査には一つだけ救いもあった。53%の国民は「米国の最良の日々はまだこれからだ」と答え、65%は「米国人であることを誇りに思う」と答えている。つまり、多くの国民は国を諦めたわけではない。
問題は、「どのようなアメリカを取り戻すべきか」という答えが、国民の間で全く一致していないことである。
独立宣言は、「一つの人民(One People)」という言葉で始まる。しかし、その「一つ」は、意見が一致していることを意味してはいなかった。
250年前も米国は分裂していた。250年後の今も分裂している。違うのは、その分断を民主主義のルールの中で乗り越えようとする意思が、少しずつ弱まり始めていることではないだろうか。
建国250周年を祝う花火の光は、その栄光だけでなく、なお終わることのない「もう一つの南北戦争」の影をも照らし出しているように見える。
(執筆:ジャーナリスト 木村太郎)

