戦後81年を迎えた沖縄。多くの体験者が沖縄戦を語り継いできた一方で、こぼれ落ちてきた記憶がある。視覚や聴覚、身体に障害がある人々の言葉だ。
過酷な戦場のただ中で、彼女ら・彼らはどのような境遇に置かれていたのか。当事者たちの切実な証言をひも解いていく。
資料に見当たらない 障害のある人たちの証言

戦後に編さんされた沖縄県史や市町村史には、障害のある人たちに関する記述がほとんど見当たらないが、南風原(はえばる)文化センターに遺された証言の中に聴覚障害者だった大城永三郎さんの記録がある。
「日本兵にスパイではないかと問い詰められた。耳が聞こえないことを身ぶりで訴えたが、伝わらず紙に書いて伝えた」

大城さんは家族の助けがあったことで九死に一生を得た。周囲の支えこそが文字通りの「命綱」であった。
「罰が当たったから」 障害ある子を抱えた父に向けられた声

戦前に事故で両足を負傷し、下半身が不自由となった屋冨祖忠治さん(85)は当時5歳だった。米軍の猛攻から逃れるため、父親に背負われて那覇から険しい山道が続く恩納岳へと避難した。
「あってないような山道です。(父は)おんぶしているもんだから、一緒に転んだりね。長女は目がみえなかった」
目が見えない姉と、歩くことのできない忠治さん。生きることに誰もが必死だった避難先の壕の中で、周囲から向けられる視線はあまりにも冷徹だった。
「(壕には人が)たくさんいましたよ。障害者は僕ら2人ですよ。あの当時は障害者といったらみんなが嫌うものだったと思う。『罰が当たったから2人も障害者がいるんだよ』という噂も出てたから」

足手まといになることを恐れた姉が父に言った言葉があった。
「姉が父に『2人を置いてみんなは逃げて』と頼んだ。でも父は『死ぬのも一緒だから心配するな』と言って。父はいつも『大丈夫だからね』と」
闇の中で響く爆音の恐怖
弱視の視覚障害を抱えながら8歳の頃に沖縄戦を体験した伊波和子さん(89)は、周囲の状況を視覚的に把握できない中で耳を劈く砲撃の音が記憶にこびりついている。

「ポンポンと鳴る弾の音がとても怖かったですね。真っ赤になったものが目の前に飛んでくるんですよ。どのぐらいの距離かは分かりません。父親が『伏せ』と言って」
光を失った夜闇の中で伊波さんは必死に避難を続けた。
「山奥に逃げる時に暗い山道をたどたどしく歩いたんですけど、あぜ道を歩いたら田んぼに左の足を何回も落ちたり上がったりして、怖かった」
同じように生きているのに

戦場を命からがら逃げ延びた後も、障害者たちを待ち受けていたのは過酷な現実だった。
屋冨祖さん一家は終戦後に収容所へと移されたが、そこでも孤立状態が続いた。
「嫌われ者だから関わりもつなよと(周りから)言われているから、近づくことはできない。毎日食べることに一生懸命だから」
だからこそ、屋冨祖さんは戦後長らく語ることを拒んできた。
「人に言ったらかわいそうに思われるだけ。なんで同じ人間なのに同じように生きているのに、特別扱いされるのは嫌だ」
「生きた証」を埋もれさせない

これまで埋もれてきた声を掘り起こして語り継ごうとする人もいる。自身も脳性まひによる身体障害があり、車椅子で生活している「沖縄戦若手研究会」の上間祥ノ介さん(30)だ。
「色んな戦争体験の話を聞く中で、僕と同じような障害のある人たちの証言がなかなか聞けなかった」
大学生の頃から活動を始め、障害を取り巻く当時の社会通念や風潮を痛感してきたという。
「(障害があるということを)隠さないといけないという風潮があって、本当はいたはずなのにいなくなってしまう。そうなると、生きた証自体がなくなる。記録する僕たち側がきちんと責任をもってやらないといけない」

沖縄戦では足手まといになるからと家族に見放されたり、避難を諦めて命を落としたりした障害者も少なくなかった。上間さんは強く訴える。
「自分では逃げ切れないということが一番死に直結する。(生死の)選択すら与えてもらえない。自分たちがどういう行動をしていけば戦争にならないのかを考えていくのが大事。僕らみたいな障害のある人たちが発言することに大きな意味がある」
戦争だけではない「戦い」

「傷を負っている人も沢山いる。だから戦争というのは二度とやってほしくないんです」(伊波和子さん)
「戦争の話はやっぱり嫌だね。自分が戦争を知っているから、誰もこんな思いさせたくない」(屋冨祖忠治さん)
障害があるがゆえに戦場で、戦後の社会で幾重ものの苦しみを味わった人たちが本当に戦っていたのは、降り注ぐ砲弾だけでなく排除や差別に満ちた当時の社会そのものでもあった。
その一つひとつの記憶が残す教訓をどう受け止め、繋いでいくのか。今を生きる私たちに問われている。

