「走るのは嫌いだった」ノルディック複合の渡部暁斗は、笑いながら振り返ります。スキージャンプへの強い憧れを持ちながら、半ば強制的にクロスカントリーも続けなければならなかった少年時代。最終的にはその「嫌いだった」要素こそが、彼を世界の頂点へと押し上げることになります。白馬村に生まれ、長野オリンピックに心を動かされ、驚異的なスピードで高校生でトリノオリンピックへと飛び込んだ渡部の軌跡は、計算ではなく、直感と適性が交差した物語でした。

■2、3歳で初スキー 原点は白馬村

渡部がスキーと出会ったのは、記憶に残る以前のこと。

「2歳か3歳か、ちょっとその正確な年齢は分からないけど、両親に連れられてスキー場に行って、滑っているのか滑らされているのか分からないような」状態からスタートしたと笑います。

育った長野県白馬村は、世界的に見ても有数のスキーリゾートです。

アルペン、クロスカントリー、ジャンプと、あらゆるスキー競技に対応した最高の環境が揃っています。

渡部自身、「白馬っていう村自体が、世界的に見ても有数のスキーリゾートで、どんなスキー競技をやるにしても素晴らしい場所」だと話します。

その土地への誇りと、同時に「代表するプレッシャー」の両方を背負いながら、渡部はスキーヤーとして育っていきました。

■長野五輪が10歳の少年に火をつけた

スキーに本格的な情熱を持ち始めたのは10歳のこと。

小学校3年生の冬に、地元・白馬村で開催された長野オリンピックを現地で観戦しました。

猛吹雪の中で見た日本スキージャンプチームの団体戦、そして金メダルの瞬間が、幼い渡部の心に深く刻まれました。

「6大会出たけど、あそこまでの盛り上がりは多分ない」と渡部は振り返ります。

小学生の肌でも感じ取れるほどの熱気が会場を包んでいました。

その興奮冷めやらぬまま翌春、渡部は白馬村スキークラブの募集チラシを学校で見つけると、親に「ジャンプをやりたい」と申し出ました。

しかし母親はジャンプの大ファンであるがゆえに、「危険なスポーツと知っているし、自分の趣味の領域に入ってきてほしくない」という複雑な思いを持っていました。

「ほんとにやるの、もうちょっと考えて」というやり取りを3、4回繰り返したあと、ようやく許しを得たといいます。

■「何で走るんだろ」強制的に複合を

ジャンプ選手を目指していた渡部ですが、本州の各都道府県では、中学生までスキークラブに所属すると、複合競技の大会にも必ずエントリーしなければならないという慣習がありました。

長野、新潟、秋田、岩手といった県では、ジャンプと複合の大会両方への出場がマストだったのです。

北海道だけが幼少期から競技を選択できたという点で、「北海道いいなー、なんで俺たち走らされてんだろうっていう感じだった」と渡部は苦笑します。

実は現在、ジャンプ界で活躍する岩手県出身の金メダリスト小林陵侑選手も、高校までは複合の大会に出場していたというエピソードを渡部は明かしました。

「いやいや大会に出てたんですよ、彼も」と言うほど、本州のスキー少年にとって複合は半ば強制的な競技でした。

しかし後に、渡部はこの経験が「クロスカントリーの板というスキー操作の難しさを身につける上で間違いなくプラスだった」と振り返っています。

■「好きな道」より「適性を取った」

ジャンプの大会ではなかなか1位になれない一方、複合の成績がじわじわと向上し始めたのは中学に入ったころです。

そして中学3年生の時、複合の成績がジャンプの成績を上回り始めました。

全国中学大会でも2位という結果を出すまでになっていました。

「好きな道に進むか、適性のあるほうに進むかで、適性を取りました」と渡部は静かに語ります。

走ることは嫌いでしたが、身体的にはクロスカントリーにも向いていたのです。

高校に上がれば15歳から競技選択が自由になるため、「ようやくジャンプ選手になれる」と思っていた渡部にとって、この決断は当初の夢を手放すことでもありました。

しかし「ジャンプで世界に行く」という目標は変わらず、舞台がノルディック複合に移っただけで、「ワールドカップという舞台で戦い続けるっていうのは、なんとなく競技を変えても思っていた」といいます。

■初めての国際大会がトリノ五輪

高校1年生でジュニア世界選手権に出場した渡部は、ほぼ最下位に近い位置に終わりました。

しかし、そこで同世代のフィンランド選手たちがすでにワールドカップレベルで戦っており、表彰台に立つ姿を目にしたことが大きな刺激となりました。

「あ、もうここだな」と感じたといいます。

そしてジュニア世界選手権からわずか翌年、渡部は各選考会を5位前後でクリアし続け、5人目として代表枠に滑り込みました。

「勝ちまくったわけではない」と本人が言うように、総合力で2006年トリノ五輪の代表権をつかみとった形です。

驚くべきことに、これが初めてのシニアの国際大会でした。

「ワールドカップにも出たことがなかったんです。初めてのトップレベルの国際大会がオリンピックで」と渡部は振り返ります。

選手村で日本代表の先輩たちと初めて顔を合わせ、「テレビで見ている人だ」と思いながら過ごした最初のオリンピックは、19位という結果ながら、「楽しかった」という感覚だったといいます。

■「W杯個人総合優勝こそが本物」

2006年のトリノ五輪の後、渡部は着実に世界のトップへと駆け上がっていきました。

ワールドカップでは個人総合優勝を達成し、8シーズン連続トップ3という大記録も打ち立てました。

渡部本人の中では、オリンピックよりもワールドカップに大きな比重を置いていました。

「年間20数試合やってその総合優勝、それこそが本物だろっていう、斜に構えていた部分もあった」と語ります。

「オリンピックはただの通過点だみたいな話をずっとしながら、そこにたどり着いた部分もあって、自分の実力は証明できたと思う」と言い切る渡部の言葉には、競技者としての揺るぎない自信がにじんでいました。

※この記事は、2026年5月10日にNBS長野放送で放送した「北野建設Presents 雪上に刻んだ軌跡 キング・オブ・スキー 渡部暁斗」をもとに構成した内容です。(全3回の記事その2)

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