任期満了を迎えた馳浩知事にとって、その日は「春の夕日」だった。4年間にわたって石川県政を担ってきた馳知事は、最後の登庁日に後継者となる山野之義新知事への事務引継ぎを終え、退任会見の場でこう語った。「まさしく春の夕日を今、実感しておりますが、明日からの歩みに自分自身に期待をしております」。そして会見の締めくくりに、一首の短歌を朗々と詠んだ――「日本海 沈む夕日にありがとう 我が白山に陽はまた昇る」。

「政治は諦めていない」と宣言し、知事という肩書きのない立場でも能登のために全力を尽くすことを誓った馳浩。保守分裂の激戦から始まり、能登半島地震という未曾有の災害まで、話題に事欠かなかった1期4年間を振り返る。

「動かそう 春の石川 新時代」――保守分裂の激戦を制した初当選

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4年前、石川県知事選挙は保守分裂の三つ巴という異例の激戦となった。その戦いを制したのが、プロレスラーから政界に転じ、国会議員として長年活動してきた馳浩だった。

開票が進む中、会場に「馳コール」が響き渡った。集まった支持者たちの歓声を受けながら、馳浩は両腕を高く掲げた。「動かそう 春の石川 新時代」。国会議員として培った「国とのパイプ」を武器に、石川県政を新たなステージへと引き上げることを約束した。

その言葉通り、知事就任後には国とのパイプを活かした具体的な政策実現が積み重なっていった。能登でのトキの放鳥や金沢でのG7教育大臣会合の開催といった成果は、馳知事が国会議員時代から築いてきた人脈と信頼関係の賜物だった。

トキの放鳥については、馳知事自らが「トキの放鳥の候補地として申請書をお持ちいたしました。」と関係機関に働きかけるなど、直接的な行動で実現を後押しした。

また、馳知事が国会議員時代から一貫して力を入れてきた「夜間中学校」の設置は、在任中の重要な実績の一つとなった。去年、ついに県内での設立が実現し、開校式で馳知事はこう語りかけた。「あすなろの木のように、明日に向かって努力を重ねていただきたいと思います。」

その言葉には、長年の悲願がようやく形になった喜びと、学ぶ機会を求めてきた人々への敬意が込められていた。

馳浩を政界へ導いた重鎮として森喜朗元総理の県庁訪問も、在任中の印象的な場面の一つだった。森氏は馳が政界に進むきっかけとなった恩人でもあり、長年にわたる師弟関係や政治的なつながりが両者の間にはあった。県議会の傍聴席に森氏が姿を見せた際には、会場の空気が一変し、報道陣や傍聴者の注目が集まった。

知事室では、「何年ぶりですか?」と聞いた馳知事の言葉に対し、森氏は「何十年」と答えていた。馳知事の前任、谷本氏とと森氏との間柄との違いがそこに現れていたようだった。馳知事にとって森氏は師であると同時に、政界で培った信頼関係や後ろ盾を象徴する存在だった。

「私は死ぬまでプロレスラーであります」――賛否を呼んだ言動の数々

馳知事の1期4年間は、波紋を広げる発言や行動とも切り離せない。就任から間もなく訪れた2023年の元日、現職知事として初めてプロレスに電撃参戦。「なんか元旦から日本武道館で大声あげて騒いでいたような気がしましたが…」と観戦した職員をやゆしていた馳知事。県民からの賛否両論を巻き起こした。

知事として公の場でプロレスに参加することへの批判に対し、馳知事は毅然として答えた。「休暇中のことでありますので、特に申し上げることはございません」「私自身の健康と日時の許す限りの範囲内でリングに上がっております。私は死ぬまでプロレスラーであります。」

さらに大きな波紋を呼んだのが、東京オリンピックの招致活動をめぐる発言だ。当時、自民党の招致推進本部長を務めていた事から、馳知事は、ある場でこう発言した。「安倍晋三さんから国会を代表してオリンピック招致、必ず勝ち取れとIOC委員のアルバム作ったんですよ。外に言っちゃだめですよ、官房機密費使っているから。」1冊20万円のアルバムをIOCの委員に配ったというこの発言は、たちまち全国的な注目を集めた。

しかし、馳知事はすぐに会見を開き発言を撤回した。「五輪招致に関わる問題でありますので、発言を全面的に撤回したとお伝えしたいと思います。発言については誤解を生じる可能性がありますので、全面的に撤回をいたします」。質問と答えがかみ合わない場面もあり、この一件は馳知事の在任中に最も大きな批判を受けた出来事のひとつとして記憶されることになった。

「反省すべきは反省して」――白山登山中に起きた豪雨

賛否を呼んだエピソードは他にもある。白山をPRするために登山していた馳知事。ところがその翌日、記録的な大雨が石川県を直撃し、県道は通行止めとなった。災害対応の陣頭指揮を執るべきトップが県庁に戻れなくなるという事態が発生したのだ。

県庁では徳田副知事が災害対応にあたっていた。「馳知事は現在、不在でございますけれども、知事とは早朝から連絡体制をとっているところでありまして…。」

その後、県庁に戻った馳知事は率直に語った。「県民に不安感を与えることのないように、反省すべきは反省して、速やかな決断と実行ができるようにしたい」。この出来事は、知事という職責の重さと、トップリーダーとしての危機管理のあり方を改めて問いかける出来事となった。

「私、帰省中で自宅におりました」――能登半島地震

そして馳知事の4年間を語る上で最も避けて通れないのが、2024年の元日に発生した能登半島地震だ。

「私、帰省中で自宅におりました」――地震発生時、都内にいた馳知事。「総理、林官房長官とすぐ連絡をとって、ひとまず官邸に来て状況確認。」自衛隊のヘリで石川に戻った馳知事。国とのパイプを最大限に活用しながら、馳知事は未曾有の災害対応に全力で当たった。

とりわけ、災害関連死を防ぐために設けた「1.5次避難所」は、前例のない対応として注目を集めた。通常の避難所と二次避難所の中間に位置するこの仕組みは、被災者の健康と安全を守るための緊急措置として打ち出されたものだった。

しかし、馳知事が被災地を直接訪れたのは、地震発生から2週間後の1月14日。当時の岸田総理と共に被災地を訪れた。県民からは「遅い」との批判を浴び、馳知事は、その後、避難所で頭を下げ「お見舞いが遅れて申し訳ございませんでした。」と述べた。

試練は続いた。2024年9月には被災地を奥能登豪雨が再び襲い、ようやく進み始めていた復旧・復興の歩みをさらに困難なものにした。馳知事の任期後半は、能登半島地震への復旧・復興に全力を注いできた時間だったと言えるだろう。

「ノーサイド」――6000票差の相手と向き合った引継ぎ式

任期最終日となった2026年3月26日。県庁では知事の事務引継ぎ式が執り行われた。「どうぞ」「失礼します」「お疲れ様でございます」「ご無沙汰してます」――知事室のドアが開き、馳知事と山野之義氏が言葉を交わした瞬間、その場に独特の緊張感が漂った。

この二人は、直前の知事選挙においておよそ6000票差という激戦を演じた間柄だ。選挙後、初めて顔を合わせたのがこの引継ぎ式の場だった。

馳知事は山野氏にこう語りかけた。「行政の継続性という観点からも、しっかりと引き継いでいただけることをお願いしたいと思います」。それに対して山野氏は答えた。「知事が取り組んでこられたことを、いい形でしっかりと実を結びつけていきたいというふうに思っています。」

式では、予算に関する資料や被災地の復旧・復興に関わる懸案事項などをまとめた引継書が、馳知事から山野氏へと手渡された。その後、非公開での懇談が行われた。

懇談を終えた山野氏は記者団に語った。「お互い大人ですし、そこは選挙を終えたので、ノーサイドという言葉がありますけれども、一緒に石川県を元気にしていこうという思いはまったく同じですので、そういう気持ちで話をできました。」

「春の夕日」――最後の記者会見

引継ぎ式を終えた馳知事は、最後の記者会見に臨み、ゆっくりと言葉を選びながら語り始めた。

「きょうで退任、これが最後の記者会見となる。まさしく春の夕日を今、実感しておりますが、明日からの歩みに自分自身に期待をしています。」

4年間という時間を「春の夕日」と表現したその言葉には、充実感と名残惜しさ、そして次へ向かう希望が混在していた。沈みゆく夕日のような一つの時代の終わりを認めながら、しかし「自分自身に期待をしている」という前向きな言葉が続いた。

記者から「山野新知事に期待することは何か」と問われると、馳知事の表情が少し変わった。

「残念ながら危機管理最優先で、議会もありましたので、政策論争を一回もすることがかないませんでしたので、何を期待するかについて、それを発言する材料を持ち合わせていません。特に私から申し上げることはありません。」

「能登を見捨てておけません」――知事を去っても続く使命

これからの自身の展望について問われた馳知事は、迷いなく答えた。

「自分は政治は諦めていませんが、選挙に出る出ないではなくてですね、能登を見捨てておけません。なんとか能登のために役に立ちたいなあと思っています。知事という肩書きのない立場で、能登に入って復旧・復興を進めていく一助になりたいなあと、率直にそう思っています。」

この言葉には、知事という職を失っても変わることのない、能登への責任感が込められていた。

退庁にあたっての挨拶でも、馳知事は同様のメッセージを繰り返した。「いつかどこかで大きな朝日となってこの石川県を照らすことができるように精進したいと思っています。知事ではなくても、馳浩として石川県のために全力を尽くすことをお誓い申し上げて、ご挨拶といたします。」

そしてマイクを遠さず、大きな声で叫んだ。
「ありがとうございました!」

「陽はまた昇る」——最後に詠んだ一首

会見で記者から短歌を求められた馳知事は、少しだけ照れたように言った。「まあ、一句……いきなりそう来ました」そして、こう詠んだ。

「日本海 沈む夕日にありがとう 我が白山に陽はまた昇る」

日本海に沈む夕日は、4年間の任期の終わりを象徴する。知事として精一杯取り組んだ日々への「ありがとう」という言葉が、自然の情景に重ねられている。そして石川県の象徴でもある白山。そこに昇る「陽」は、新しい時代の始まりを告げる。「我が」という言葉が、この山への深い愛着を示している。

この短歌には、退任の寂しさも、政治への未練も、能登への思いも、すべてが凝縮され、馳浩という政治家の4年間の総決算が、31文字に刻まれた。

プロレスラーとして鍛えた身体と、政治家として積み重ねた知識と経験を持つ馳浩は、知事という肩書きを返上したその瞬間から、新たなステージへと踏み出した。夕日が沈んだ後には、必ず朝日が昇る。「陽はまた昇る」という言葉を、馳浩自身が体現し続けることになるだろう。

(石川テレビ)

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