1977年(昭和52年)8月、高知市の中心街で発生した「日興証券立てこもり事件」は、国内の人質事件として当時、あさま山荘事件、金嬉老事件に次ぐ3番目の長さとなる56時間にも及んだ 。発生から49年が経過した今、当時人質だった女性や捜査員が初めて沈黙を破り、事件解決の裏側にあった驚くべき真実を語った 。
猛暑の街を震撼させた「水中銃」の脅威
1977年8月16日午後5時15分、高知市堺町の日興証券高知支店ビル4階更衣室に、男が女性職員6人を人質にとって立てこもった 。犯人が手にしていたのは、包丁と、魚を突くための「水中銃」だった。
現場に急行した高知県警の元刑事・矢野嘉秀氏は、至近距離でその凶器を目撃している 。「人に発射すれば、体は完全に貫通する。殺傷能力は十分にある」と話す 。矢野氏は犯人の声や体格から、わずか4か月前にも別の監禁事件を起こし、自らが逮捕した男であるといち早く特定した 。男は起訴後に保釈されたばかりだった 。
極限状態の密室:人質たちの「沈黙の連帯」
犯人は入り口にロッカーを移動させてバリケードを築き、人質をその囲いの中に集めた 。トイレに行く際、犯人は人質の一人に水中銃を向けながら同行させた。人質が一人でトイレに行くことも許した。「自分が逃げたら、残された他の人がどうなるか分からない」という恐怖が、彼女たちを繋ぎ止めていたのである 。
監禁が長期化するにつれ、更衣室内の空気には変化が生じていた 。犯人を刺激しないよう、人質たちはあえて普通に会話を交わし、逆らわない態度を貫いた 。当時、説得にあたった藤原充子弁護士や人質の女性は、犯人の印象を「猛々しい人ではなく、普通の、気の弱そうな男だった」と口を揃える 。
緊迫の3日目、そして死の覚悟
事件発生から30時間を超えた3日目、犯人の精神状態は不安定さを増していく 。窓から水中銃を突き出し、報道陣に対して「復讐したい人物との交換」を要求 。さらに、手元には「致死量の農薬」を忍ばせ、自決の準備すら進めていた 。
「警察が飛び込んできたら私、犠牲になります。お願いですから止めてください!」 。階下で見守る母親に向かって叫ぶ人質の悲痛な声が、繁華街の闇に響き渡った 。この時、人質と犯人の間には、極限状態ゆえの奇妙な共鳴が生まれていた 。人質は報道陣に対し、「おじさん(犯人)は悪い人ではないと信じている。全員一緒に出たい」とまで語っていた。
49年目に明かされた「突入の鍵」
8月19日午前1時45分。発生から56時間30分後、警察はついに強行突入を敢行した 。屋上からロープで降下した捜査員が窓ガラスを割って入り、犯人は農薬を飲んで自殺を図ったものの、人質5人は全員無事に救出された 。
事件から49年。人質の女性は、これまで伏せられていた決定的な「舞台裏」を明かした 。
「私がここのドアの鍵を開けて、警察官が入ってきた」 。
3日も4日も経過し、全員が限界を迎えていたあの瞬間、彼女は「ここで開けないと私ももたない」という決死の思いで、自ら密室の扉を開放していたのである 。元記者の鍋島康夫氏は「彼女が開けたからこそ、警察は突入できた。これは高知県の犯罪史を語る上で非常に大きな意義がある」と驚きを隠さない 。
56時間に及んだ監禁劇を終わらせたのは、警察の突入だけでなく、仲間の命を守り抜こうとした一人の女性の、あまりにも静かで、あまりにも強い勇気であった 。