2011年3月11日の東日本大震災発生から15年。
この日から約2週間にわたり、日本列島とりわけ東日本は、福島第一原発が制御不能になり首都圏も放射能に汚染され、原発から半径250㎞圏内の約5000万人が避難しなければならなくなる最悪のシナリオにおびえる極限の日々が続いた。
12日に原発1号機の建屋が水素爆発、14日には3号機建屋も水素爆発する中、原子炉を水で冷やす必要性に加え、原発の使用済み燃料プールの水も足りなくなり、給水が急務となっていた。
そこで17日に自衛隊が行ったのが、異例とも言えるヘリから原発への空中放水、そして建屋の目の前からの地上放水だった。
フジテレビは3月13日午後9時から、ヘリからの放水や地上からの放水にあたった自衛隊員らへの取材をもとに、初公開を含む当時の映像を交えたドキュメンタリードラマ「3.11~東日本大震災15年 福島第一原発事故 命の戦い~」を放送する。
その中で主役のモデルとなった自衛隊員がインタビュー取材の中で、当時の覚悟と決意、本音を明かした。
なぜ空中放水が必要だったのか
その前提として、当時ヘリでの放水を行う必要があった背景に触れたい。
関係者らに改めて聞くと、当時の首相官邸や防衛大臣からの強い意向があったという。
実は米国政府・米軍は、原発の使用済み燃料プールの状態に強い危機感を持っていて、日本がどこまで本気で原発事故対応に取り組むのか疑念を抱き、米軍家族の一時退避も検討する状況だったという。
こうした状況の中で、当時の首相官邸は北澤俊美防衛相に対し状況の打開を要請。幹部が協議する中で、自衛隊がヘリで上空から放水するという案が浮上した。
官邸側からこの放水を実施するように要請があった中、北澤大臣も出席した防衛省自衛隊の会議で当時の統合幕僚長が苦渋の思いで各部隊に対し、「なんとかやらないといけない、命をかけてやってくれ」と呼びかけると、各部隊の責任者は一様に「やります。手を上げます」などと返答。統幕長が北澤大臣に「命をかけてやります」と誓い、このオペレーションの実行が決まったという。
ヘリからの放水は午前9時48分から4回にわたって行われ、終了後の午前10時20分すぎには、菅氏と米国のオバマ大統領の日米首脳電話会談が行われた。
この中で放水についても報告したとみられている。
菅首相と北澤防衛相が決意し評価した「英雄的オペレーション」
この決断について後日、北澤氏はこう振り返る。
「アメリカからは『英雄的オペレーション』をしないと世界が納得しない」とも言われていたんですよ。いろいろ検討するなかで『自衛隊がヘリで放水するのが一番いい』ということになって」「1日目は放射線の濃度が高くて断念しましたが、翌日は断固としてやった。いいオペレーションができて、アメリカ側の対応もガラッと変わりましたね。『日本は本気を出してやっている』と」
上空からの放水の効果を疑問視する向きもあったが、このヘリによる放水は、米軍に対し日本として原発事故に立ち向かう断固たる姿勢を示し、また日本国民にもあらゆる手段を尽くして事故を収束させるという決意をわかりやすく見せ、勇気を与える場面となった。
そしてその後、より確実な地上からの放水により、安定した給水が行われるようになっていった。
ヘリで放水に向かった隊員の使命感「誰かがやらなければ」
このヘリからの放水に関わった1人が、当時第一ヘリコプター団の一員だった山岡義幸氏だ。山岡氏は、任務にあたっての心境を次のように振り返っている。
「防衛省自衛隊としても原子力発電所、また放射能に対する任務というのは誰もが経験したことがなかったことですよね。放射能を被曝することによって、体に及ぼす影響、見えないものに対する影響その他ありますが、そういうものに対する恐怖感はありました。しかしながらそれを誰かがやらなければいけないというところですね。
我々自衛官は、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託に応えるための組織です。必ず誰かがやらなければいけないという認識はありました」
恐怖感を心の底に抱きつつも、自衛官としての責任感と使命感で任務に臨んだ山岡氏。
ただ、実際に放水に向かう命令をめぐっては紆余曲折もあった。そして山岡氏を支えた家族の思い。こうした葛藤を経て飛行した福島第一原発上空の機内では放射線量計の数値がみるみる上がっていくのを見たという。
「実際に福島第一原発の建屋が見えてきた時には想像を絶するような建屋のコンクリート片、巨大なコンクリート片があちこちに散らばっていて、また津波で押し流された車などが丘の上まで上がっていてその時の光景は今でも忘れられません。またその建屋の骨組みの中に丸い球体のものが見えて、それを見た時にすごい怖かったというのはあります。また放射線量計のデジタルカウンターが徐々に上がり始めていって、接近すればするほど数値が読めないぐらいのスピードで急上昇していって、一体これはどこまで上がるんだろう、そういうところで恐怖の気持ちはありました」
この恐怖と闘いながら「この水を1滴でも多く入れる」という思いで臨んだ放水。
やりとげて帰還した際には「今まで感じたことのないような安堵感と、任務を達成したんだという思い、緊張感がほぐれた瞬間、今まで張り詰めた気持ちが一気に解けた感じだった」という。
地上放水部隊を襲った3号機爆発
一方、地上で放水作業にあたった自衛隊員の中で、今回のドラマの主役の1人となったのが、当時、埼玉県の大宮駐屯地にある中央特殊武器防護隊の隊長だった大倉達也氏だ。大倉氏は災害派遣として原発に向かうことになった時の心境を次のように語っている。
「実はそんなにあまり深刻には考えていなくて、私は化学学校で教官でもあったんですけども、日本の原発は安全なんだという教育を受けていたし、私たちもそういう教育をしていたので、何らかの事象があったとしても、被害がエスカレートしていくようなことはないんだろうなと私は勝手に思っていた。
しかし実際は水素爆発でどんどん事態がエスカレートしていった。ああいった事態が起こるというのは、その時点では思っていなかった」
確かに当時、日本の原発の安全性については、多くの人が信じていて、津波による全電源喪失などという事態は、一般的には想定できていなかったのが実情だ。
そして現地に着いて、事態の深刻さを目の当たりにした大倉氏。ただ、危険度については測りかねていたという。
「本当に安全なのか。やはり隊員の命だとか、隊員の家族も含めて責任ある立場なので、いたずらに隊員を危険にさらすようなことはしたくない。危ないという情報に対しては、本当はどうなのか、実際どうなのか、どれぐらい危ないのか危なくないのか、そういった細かいところを知りたいと思っていたんですけれども、なかなか細かいところの情報というのは我々のところまでは降りてこなかったという感じですね」
当時、原発対応を指揮していた東電本店や原子力保安院、そして首相官邸でも原発の現状を正確に把握しきれない中、現場もまた手探りでの対応を迫られていた。
そして3号機への地上からの給水という任務にあたることになった大倉氏らの部隊。部下たちが給水に向かうのを送り出してから15分~20分後、一帯に轟音が響き渡ったという。
この爆発によって生じた事態を受け、大倉氏は隊長としての責任を胸に、自らが放水の現場へと向かうことになる。
今回、大倉氏たちが18日に行った3号機への地上からの放水を撮影した映像の全容を初めて公にする。そこには、原発事故をなんとか収束させようとする自衛隊員たちが、見えない放射線の恐怖と闘いながら懸命の放水を続ける姿と音声が記録されていた。
大倉氏は15年後の今、自分たちが危険と向き合いながら守りたかったものについて、こう語っている。
「家族だとか親だとか兄弟だとか、そういった親しい人を守りたい。そういった人たちが住んでいる国土を守りたい。そういう風に感じました。東日本全体が放射能で汚染されて危ない状況になるということになると、国土全体が広範囲に人が住めないだとか、立ち入れないだとか、そういった形になるかもしれない、そういったことを少しでも防げる力になれればというそういう意識はありました」
「3.11~東日本大震災15年 福島第一原発事故 命の戦い~」
3月13日(金) 午後9時~午後10時52分 フジテレビ系列で放送
(フジテレビ報道局 政治部)
