誰もが一度は耳にしたメロディーばかり…“職業作曲家”のこだわり

歌手の個性を生かしたメロディーを作り続けてきた筒美京平さん。10月7日、誤嚥性肺炎のため80歳で亡くなった。

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自分のことをアーティストではなく“職業作曲家”と呼んだ筒美は、その言葉通り生涯を通じて、キラ星のごときヒット曲の数々を生み出してゆく。ほとんどがきっと誰もが一度は耳にしたメロディーばかりだ。

その生涯で生み出した楽曲は、およそ3000曲。作曲家としてのシングル総売上枚数は名だたるアーティストを抑えて歴代1位に。

また、20代だった1960年代から還暦を過ぎた2000年代まで、それぞれの年代でオリコンチャート1位という信じ難い快挙も記録している。

一度聴いたら耳から離れないこのメロディーの数々はどう生まれたのか?

40年来の付き合いだったという音楽家の近田春夫氏に取材すると、その源に、筒美の“職業作曲家”としてのストイックさがあるのだと語った。

近田春夫氏:
やっぱり、今風に言うと“掴み”っていうのが大切だというのは、京平さんはすごく意識してらっしゃったと思うんですけどね。口ずさみやすいというのはイコール、ある意味では簡単なものだったりするんですよ。

なので、そこらへんのところを常に同業者からどう思われるとかじゃなくて、あくまで売れる曲とは何かっていうところにフォーカスをずっとブレずに絞って、ずっと書いてこられたっていう。それがものすごくストイックなことですよね…

「センチメンタルジャーニー」誕生秘話

『読み捨てられる 雑誌のように 私のページが めくれるたびに 放り出されて しまうのかしら…』

まだ幼い恋心が不安げに揺れる言葉の数々に男はメロディーをつけた。それが松本伊代さんのデビュー曲「センチメンタル・ジャーニー」だ。

作詞家の湯川れい子さんはテレビで初めてその曲を聴き、衝撃を受けたという。

今回、Mr.サンデーの取材を受けてくれた音楽評論家・作詞家の湯川れい子さん。湯川さんは当時、松本伊代さんのために書いた自筆のメモを特別に見せてくれた。

実は、そもそもメモは歌詞ではなく、当時16才だった伊代さんのイメージをスケッチしたメモに過ぎなかった。ところが、筒美はそのメモを受け取ると、いきなり作曲を始めたという。

湯川れい子さん:
それがそのまんまメロディーがついて、一言一句私は直さなくて歌になっちゃったっていうのは初めてで最後だと思います。

こうして完成したのが、40年経っても色褪せないあのメロディーだったのだ。

その曲に驚いたのは、歌手である松本伊代さん本人でもあった。

松本伊代さん:
自分の名前が歌詞に入ってる!と驚き、またこれってどうやって歌うんだろうって、すごくちょっとだけ不安に思ってたのを京平先生のメロディーをつけて歌ったらすごく素直に歌えた。

文字だけでは気恥ずかしいフレーズも、つい口ずさめるようになってしまうメロディー。しかも、年齢の割に低めだった声を逆に魅力的に響かせるために…

松本伊代さん:
私にすごく合わせて作ってくれてるなっていうのがすごい感じられるっていうか。やっぱりそんなに歌も上手じゃないし、でもすごく上手く歌えるようなメロディーになってるんじゃないかな。下手くそなのがあんまりわからないメロディーなんじゃないかなってすごい思いますね。

生涯最後のオリコンチャート1位とは?

筒美は、生涯最後のオリコンチャート1位を63才で記録した。生涯“職業作曲家”を貫いた男が、63才にして最後のオリコンチャート1位を飾った曲は…

きっと、新幹線の中で耳にした人も多いだろうTOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」。

日本の音楽シーンをまさに切り裂くように走り抜けた巨星は、旅立つ人に栄光あれ。多くの後進に「大志を抱け(be ambitious!)」と静かに旅立った…

(「Mr.サンデー」10月18日放送分より)