6月23日は「沖縄慰霊の日」です。太平洋戦争末期の1945年、沖縄での戦いで旧日本軍による組織的な戦闘が終わった日とされています。23日は沖縄本島南部・糸満市の平和祈念公園で戦没者追悼式が行われました。激しい地上戦が行われた沖縄戦では住民を含め20万人余りが亡くなりました。継続的にお伝えしている「語り継ぐ戦争の記憶」、今回は沖縄戦に関係する証言です。
沖縄戦で特攻隊員として戦死した宮城県出身の青年がいます。思いをつづった遺書と手紙が今も親族の元に残されていました。「父母上さようなら」18歳の青年が出撃の直前に家族へ送った1枚の葉書。
特攻隊で戦死した信夫少尉の甥・相花俊信さん
「これが信夫の絶筆になった、ということでこの葉書が一番、信夫を思うのに一番感じるところですね」
大崎市三本木の相花俊信さん(77)。葉書を書いたのは俊信さんの父の弟、叔父にあたる旧日本陸軍の少尉・相花信夫さん(享年18)です。信夫さんは戦闘機ごと敵艦に突入する特攻隊のパイロットとして、太平洋戦争末期の沖縄戦で戦死しました。
太平洋戦争末期、旧日本軍は戦闘機ごと敵艦に体当たりする「特攻作戦」を行いました。1945年3月に始まった沖縄戦でも特攻作戦が行われ、多数の若者が命を落としました。
鹿児島県にある知覧特攻平和会館。かつて陸軍特攻隊の出撃基地があった場所は、現在、特攻隊関連の資料を展示する施設となっています。沖縄戦では1036人の陸軍特攻隊員が戦死しました。中でも最も多い439人が出撃したのが、この知覧の基地でした。重さ250キロもの爆弾を積んだ戦闘機に乗り、敵の艦隊に体当たりする「死」が絶対条件の捨て身の作戦。特攻が決まった青年たちは故郷に残す家族や恋人などに遺書を遺しました。相花信夫さんも家族に遺書を遺し、故郷・宮城から遠く離れたこの場所から沖縄に飛び立ちました。
信夫さんの遺書です。特攻への強い覚悟の言葉が並び、自分を奮い立たせるかのようにも見えます。同時に、母・アキさんへ残した最期の言葉には後悔の念がにじんでいます。
「母上六歳の時より育て下されし生母以上の母上に対し「お母さん」と呼ばなかつた信夫 母上は如何程淋しかつたでせう 呼ぼうと幾度も思ひましたが面と向かつては恥かしいやうで言へませんでした 今こそ大聲(ごえ)で以て呼ばして頂きます お母さんと」
母・アキさんは信夫さんが6歳の時に、父が再婚して継母となった人でした。信夫さんはそのアキさんを最期まで「お母さん」と呼べなかったことを悔いていたのです。それにはもう一つ理由がありました。
特攻隊で戦死した信夫少尉の甥・相花俊信さん
「信夫に対して『お前、母ちゃんと呼ぶな』とそういうことを言ったようなんです」
8歳年上の兄・俊一さんが信夫さんに対して継母であるアキさんを「お母さんと呼ぶな」と命じたというのです。兄は当時、思春期。継母に対して複雑な気持ちを持つのも無理はありませんが、その言いつけを守った信夫さんには大きな心残りとなりました。その思いは特攻隊員に決まってから書いた手記にも残されていました。
「遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺 幾度か思ひ切って呼ばんとしたが何と意志薄弱な俺だつたらう 母上お許し下さい さぞ淋しかつたでせう 今こそ大聲で呼ばして頂きます お母さん お母さん お母さんと」
にじんだ紙には小さな穴が開いています。
特攻隊で戦死した信夫少尉の甥・相花俊信さん
「涙の跡だと、信夫の(とアキさんが言っていた)。母上とかお母さんとかの字があるところに必ず赤ペンが記載されています」
手記にはアキさんが何度も読み返した跡が残されていました。兄の俊一さんも悔いを抱え続けていました。
特攻隊で戦死した信夫少尉の甥・相花俊信さん
「兄(俊一)の方は酒なんかで酔っぱらうと『俺が悪かったんだなあ』信夫に対してお母さんと呼ぶなと言ったのも悪かったなということは、よく酒飲んで言ってました」
信夫さんは1945年4月に一旦出撃を命じられますが、戦闘機の不調で1人だけ飛び立てなかったことも書き残していました。
「此の俺だけ不甲斐なく生き延びた 戦友よ許せ 必ず二日と出でずして 俺も後を追ふ 待つてゐて呉(く)れ」
信夫さんはこの一週間後の1945年5月4日に出撃、戦死しました。
石巻市私設平和資料館 佐々木慶一郎さん
「彼が死ぬ時に書いた、親に書いた遺書です」
佐々木慶一郎さんは戦争に関する史料を4千点以上集め、私設資料館として公開しています。信夫さんが残した遺書の複製を展示し、過ちを繰り返してはいけないと訴えます。
石巻市私設平和資料館 佐々木慶一郎さん
「同じ過ちは二度と繰り返してはいけない。国と国との問題解決に、戦争という手段だけはどんなことがあってもとってはいけない。私はそれを話していきたいと思っています」
前途ある青年の命を一つの兵器として扱う特攻。18歳の青年が端正な文字でしたためた遺書は最期まで家族を思う人間らしい気持ちであふれていました。
「北海道の叔父上には遂ひに最後迄御禮(れい)の便り書くことなく征きます 父上からお傳(つた)へ下さい
桑折の祖母上さぞ歎(なげ)くことでせう 御身体を大切にして下さるやう祈つてゐ(い)ますと傳へて下さい
父母上 では征きます」