旧日本軍が第二次世界大戦中に建設し、10万人以上が命を落としたタイの「泰緬鉄道」をFNNが取材した。

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人気スポットとして観光客が増える一方、連合国軍捕虜らを酷使した“死の鉄道”の記憶は風化し、犠牲を伝える博物館は資金難で閉鎖予定。元作業員の遺族は爆弾の破片を孫に見せ、戦争の悲劇を語り継ごうとしている。

10万人以上が犠牲に…泰緬鉄道の今

80年前の戦争は日本だけでなく、アジアの国々にも大きな爪痕を残している。

建設中に10万人を超える犠牲者を出し、死の鉄道と呼ばれたタイの「泰緬鉄道」の現在の姿を取材した。

FNNバンコク支局・杉村祐太朗記者:
汽笛を響かせ、『泰緬鉄道』の列車がいまゆっくりとこちらに向かってきます。

タイ西部・カンチャナブリを走っているのは、かつてタイとビルマ(現ミャンマー)を結んだ「泰緬鉄道」だ。第二次世界大戦中に、当時の旧日本軍が物資の補給路として建設した。

1957年に公開され、アカデミー賞7部門を受賞した映画「戦場にかける橋」の舞台としても有名で、列車内はいつも多くの外国人観光客で賑わっている。

車窓に広がる雄大な自然の景色や、崖を切り開いて作られた岩肌すれすれの線路が観光客を楽しませている。

スペインからの観光客:
景色がとても魅力的で素敵です。

フランスからの観光客:
ここに来られてとても嬉しいです。

カンチャナブリを2024年に訪れた観光客は、10年前の2倍以上となる約1500万人に上り、この鉄道は今や人気スポットとなっている。

しかし、その建設を巡っては、辛い記憶があった。

旧日本軍は捕虜にした連合国軍の兵士などに過酷な労働を強要し、全長415kmにおよぶ鉄道を、わずか1年3カ月で開通させた。

伝染病や栄養失調で10万人以上が犠牲になったと言われ、「死の鉄道」とも呼ばれている。犠牲者の慰霊塔には、毎年タイ在住の日本人が訪れ、追悼の法要を続けている。

法要の参加者:
生きている間はここへ毎回(来て)、(法要を)続けていきたいと思っています。

ただ、現地では記憶の風化が進んでいる。

鉄道のすぐそばにある建物は、亡くなった捕虜を称えるために約40年前に作られた「JEATH戦争博物館」だが、コロナ禍で客が途絶え資金繰りが悪化し、近く一時閉館することが決まった。

「死の鉄道」の歴史は後世へ

当時を知る人も減り続けている。かつて「泰緬鉄道」の列車が走っていた地区に住むデーンさんに話を聞いた。

デーンさんの父親トンプロムさんは、鉄道建設に従事した「生き証人」だったが、去年、96歳の生涯を閉じた。

FNNは5年前の2020年7月、トンプロムさんを取材していた。

トンプロムさん:(2020年7月)
私は日本軍のためゾウに乗って丸太を運び、積み上げていました。

トンプロムさんは10m以上ある丸太をゾウにのせて、多いときで1日に30回、現場を往復していた。死亡した大勢の捕虜を見かけたこともあったという。

トンプロムさん:(2020年7月)
戦争はよくないです。大勢の人が死にます。

トンプロムさんが亡くなり、当時のことを話せる人はもういない。

デーンさん:
この地区には戦争を経験した人が多くいましたが、もういません。父が最後の1人でした。

戦争の記憶を伝えたい。父親の思いを胸にデーンさんはこの日、トンプロムさんが大切に保管していたものを孫のリウさんに初めて見せることにした。

「泰緬鉄道」の線路に、連合国軍が落としたとみられる爆弾の欠片だ。

リウさん:
爆弾大きいね。おじいちゃん。

デーンさん:
大きいでしょ。40から50kgくらいある。

リウさん:
これは欠片だけ?

デーンさん:
そう、爆弾の欠片。爆弾が落ちてきて大きな堀ができたんだよ。持ち上げられるか?

リウさん:
おっ!無理、重い。

父親の遺品を通して、戦争の恐ろしさが孫に伝えられた。

リウさん: 
世界中の人が影響を受けるから、戦争は本当に起きてほしくないと思いました。友達にも遺品を見せて、戦争の歴史を知って欲しいです。

「死の鉄道」の歴史を通して、引き継がれる平和への思い。風化と戦いながら、後世へ記憶を伝える活動は続いていく。
(「イット!」6月18日放送より)

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