岩手県盛岡市にある「菜園」の地名の由来について街の人に聞いてみると、花や野菜をイメージするようだ。
現在の菜園の街を見ると花や野菜畑は想像できないが、昔はあったのだろうか。

「菜園」とは、野菜を植えた畑、野菜畑などを意味するが、盛岡市「菜園」の地名由来は、江戸時代にさかのぼるという。

長年にわたり県内各地の地名について調査している奥州市出身の宍戸敦さんは「城の食料の野菜をつくるための場所というのが菜園。盛岡城下を北上川が流れていた際、肥沃な土壌というものが野菜作りに適していた」と説明する。

現在の北上川は「菜園」から少し離れているが、旧北上川は近くを流れていた。

当時、川が氾濫すると城下に被害をもたらしたが、氾濫によって運ばれた栄養分が豊富な土壌は、城内で消費する野菜を育てる農地として利用され「御菜園(ごさいえん)」と呼ばれるようになった。

宍戸敦さん
「城に仕える人やお殿様などが食べる野菜の供給地だったと考えられる。江戸時代後半になって公園みたいな感じで使われていた。明治に入り洋式の競馬場、更に時代が進み、農学校の実習地に変わった」

盛岡城内で消費される野菜を育てていたから「菜園」。その後は公園や競馬場、農学校などが作られた。
この学校は、のちの盛岡農業高等学校だ。

盛岡市先人記念館 主任学芸員 河野聡美さん 
「1899年(明治32年)に岩手の農学校が菜園に開校した。約30年ほど盛岡の中心市街地に学校があったことになる。当時の農学校には獣医科、農科、のちに養蚕科が設置され、開校初期は約200名ほど学生を募集していた。その後、募集人数も増やしていき人気のある学校だった」

ーーどんな人が通っていた?

盛岡市先人記念館 主任学芸員 河野聡美さん 
「卒業生の進路を見てみると、獣医科については後に獣医として開業や従軍、また実践的な農業に従事した人など多くの学生が通っていた」

「菜園」で野菜だけでなく農業の担い手も育てていた。
当時の様子が伺える地図を見せてもらった。

盛岡市先人記念館 主任学芸員 河野聡美さん 
「この地図は1912年(大正元年)、今から110年ほど前に作成された盛岡の地図。岩手公園も描かれている。さらに大通り・菜園・大沢川原という現在の場所も確認できる。(地図内で)当時の農学校もあり、周辺には実習地が広がっていたので農学校としては好条件の立地だった」

ーー当時の地図を見ると水田が広がっていて、今のようなにぎやかな「菜園」にどのようにして変わっていったのか?

盛岡市先人記念館 主任学芸員 河野聡美さん 
「1927年(昭和2年)、盛岡の実業家たちが『大通・菜園』を開発するための会社を発足。北上川と中津川の合流地点から砂利を採取して埋め立て工事を行い、当時としては最先端のコンクリート舗装の市街地が作られていく」

昭和初期から開発が進み、にぎやかな街となった現在の「菜園」。今では野菜畑は見当たらないが「菜園」にある商業施設内でおいしい野菜を食べることができる。

盛岡市菜園カワトクの地下1階にある「TOMATOMA KITCHEN」の「トマトマカレー」は、ナスやパプリカなど具沢山でルーにも野菜が入っているので、たっぷり野菜を味わえうことができる。

その名の通り、かつて野菜畑が広がっていた「菜園」は、町の様子は時代とともに変わってきたが、地名は現在もその歴史を伝えてくれる。

岩手めんこいテレビ
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