43人の犠牲者を出した雲仙・普賢岳の大火砕流惨事。教訓を次の世代に伝えようと活動を続ける男性がいる。34年が経過した今、継承の難しさを感じている。
山の緑で「月日の流れを感じる」
雲仙岳災害記念館「がまだすドーム」の館長、杉本伸一さん(75)。

大火砕流が発生した当時、杉本さんは島原市の職員だった。34年経つと随分周囲も変化した。

災害からよみがえった山も緑になり、「月日の流れを感じる」と話す。
大火砕流が発生した1991年6月3日。杉本さんは最も被害が大きかった安中地区の公民館に勤務していた。

犠牲となった43人の中には、当時、杉本さんと共に災害対策に当たっていた消防団員も多く含まれている。杉本さんは「6月3日にわずかな差で生き残った。火砕流の中に巻き込まれていてもおかしくなかった」と振り返る。
雲仙岳災害記念館 杉本伸一館長:残された者として、あの時のことをきちんと伝えなければならない。様々な災害が起きたことは写真や記録に残っているが、あの時私たちが災害に遭い、どのような思いをしたかを伝えていく必要がある。
「記憶」の継承で伝えたいこと
杉本さんは、残された者としての使命感から語り部の活動を始めた。災害を体験していない若い世代にも学んでもらうため、島原半島の小中学校などを中心に、2025年も23校を訪れて子供たちに語りかける。

「火山灰が降り、地面に雨がしみ込まなくなった。そのため山に降った雨は徐々に一カ所に集まり、大きな流れとなって、最終的には元々の山も削られ、町まで大きな岩が流れてきた。これが土石流だ」(講話から)
杉本さんは画像や動画を使い、災害の恐ろしさを「記録」として伝えるだけでなく、復興までの道のりで感じた「記憶」を継承することを重視している。

雲仙岳災害記念館 杉本伸一館長:火山や火砕流を人間の力で止めることは残念ながらできなかった。どうすることもできず、災害が徐々に広がっていく中で、悔しい思いを抱き、悔し涙を流した。私たちがこの中で教訓として学んだのは、“命が大切であること、絆が大切であること、そして感謝の心を持つことの重要性”だ。
子供を通して気付く“日常の大切さ”
杉本さんは、子供たちに関わる時間を大事にしている。この日は子供たちとキャンドルを作って絵を描いた。

毎年6月3日に犠牲者を偲んで執り行う「いのりの灯」で使うキャンドルだ。絵からは「安らかに眠ってほしい」という思いが伝わり、杉本さんは感慨深い気持ちになる。

「犠牲者もその家族もきっと悲しい思いをしている。もうそんな思いをせず、ずっと平和でいてほしい」と願う。
子どもの声が聞こえるだけで、街は明るくなると感じる杉本さん。噴火のころは子供が外で遊ぶことが全くできなかっただけに、いま当たり前の幸せを実感している。

「これが本来の風景だが、災害が起きるとその普通の風景が見られなくなる。噴火災害を経験して初めて、日常の大切さが分かった気がする」と語る。体験を聞いた子供たちには「6月3日の“いのりの日“を忘れないでほしい」と願ってやまない。
記憶を「人から人に伝える」
大火砕流の惨事から34年が経過し、杉本さんも2025年で75歳になった。被災した人々が歳を重ねていく中で、火山の脅威と復興の教訓を若い世代とどのように共有していくか。杉本さんは伝えることの難しさを感じつつも「人から人に伝えることが最も心に残り、本当に伝えることができる」と考え、今できることを積み重ねている。

少しでも災害を体験した人が、まずは子どもや他の地域の人に語り継いでいくのが理想の姿だ。ただ、杉本さんは「全く体験していなくても、長崎の平和の伝承のように、体験していない人が体験した人から話を聞き、その思いを伝えていく活動が、ここ島原・雲仙普賢岳でも必要」と話す。

杉本さんが語り部活動で伝えるのは、火山の恐ろしさだけでない。島原のおいしい水や野菜、温泉などを生み出す火山の恵みについても話している。
杉本さんは「火山と共にある自分たちが住む街・島原半島を、子供たちには誇りに思ってもらいたい」と願っている。
(テレビ長崎)