ユネスコの無形文化遺産に登録された日本の酒造り。今から120年以上前の明治後期に広島では、今の吟醸酒に繋がる酒造りの方法を開発した人たちがいた。それは精米と酒の命ともいわれる水についての技だった。

大量の米を磨く動力精米機

日本酒の原料の米には、デンプンとタンパク質が含まれている。酒は米のデンプンを活かして造られるが、タンパク質は味に雑味を与えてしまうため、取り除く必要がある。

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そのためには米を磨く精米をしなければならない。明治中期まで精米は人力か水車で行われ、一度に大量にはできなかった。

この問題を解決したのが、精米機メーカー「サタケ」の創業者、佐竹利市だった。

利市は日本初の動力精米機を完成させ、大量の米を短時間で精米することに成功した。精米歩合が60%以下だと吟醸酒になるが、動力精米機の登場で大量の精米が可能になり、後に吟醸酒がつくられるようになった。

サタケの大橋奈央さんは「1番初めの基礎となるところで、佐竹利市らの精米技術が酒造りを支えてきた」と語る。

「軟水醸造法」開発でどんな水でも酒造りが可能に

もう一つの技は水に関するもの。1876(明治9)年、東広島市安芸津町で、1人の酒造家が新たな酒造りを始める。

のちに「軟水醸造法」を完成させる三浦仙三郎だ。しかし、つくった酒はほとんど腐ってしまう。その原因は水だった。

広島の水は酵母の栄養となるカルシウムやマグネシウムなどのミネラルが少ない、いわゆる「軟水」。

「軟水」での酒造りは、酵母の発酵が遅く、酒ができるまでに時間がかかり、温度や衛生管理が整っていないと、酒は製造の途中で腐ってしまう。

そんな、仙三郎の元に、佐竹利市が酒米を届ける。利市が磨いた米で仙三郎が酒を造る。

仙三郎の座右の銘は「百試千改=百回試し、千回改める」。その言葉通り何度も研究を繰り返した。

そして、1897(明治30)年、麹を十分育たせ、温度や衛生管理を徹底することで、「軟水」でも、品質の高い酒を造ることが出来る「軟水醸造法」を完成させた。広島の酒造りが、日本の酒造りに大きな可能性を生み出した瞬間といえる。

仙三郎の伝統を受け継ぐ今田酒造の社長で杜氏でもある今田美穂さんは、「そこに注ぎ込まれたエネルギーの量はすごいんだろうなと、その底力を感じる。その上に酒を造らせてもらっているという気がする」と先人の探求力があって、今の酒造りが成り立っていることを強調する。

吟醸酒に繋がる造り方

120年以上前、三浦仙三郎が完成させた「軟水醸造法」は、「質の高い麹」「酒の製造段階ごとの温度、衛生管理」が、吟醸酒に繋がり、仙三郎は「吟醸酒の父」とも呼ばれている。

佐竹利市        三浦仙三郎

また、佐竹利市の精米機の開発で、大量の精米が可能になったことも吟醸酒に繋がっており、広島の人々が吟醸酒に大きく貢献したことになる。その証拠に1907(明治40)年の全国初の清酒品評会では広島の複数の酒が灘などの酒を抑えて最高賞を受賞している。

今は水質に関係なく、いろいろな味の酒を造ることができるが、日本の酒造りは、このような先人たちの努力と伝統の技術の蓄積があり、それが無形文化遺産として世界に認められた形となった。

(テレビ新広島)

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