かつて、「野武士軍団」という異名をとり、常勝チームだった西鉄は見る影もなく、黒い霧事件によって身売り説も囁かれるなど崩壊寸前に陥ったのである。

野球への情熱は消えかかった…

ちなみに、広野と交換トレードされた中日の田中勉も八百長に関与していたとして、自由契約ののちに現役を引退。

1970年4月には、高山勲(大洋ホエールズ)と黒い霧事件の黒幕とされる藤縄洋孝とともに小型自動車競走法違反で逮捕されている。

近い存在の選手たちが次々と球界からパージされるなか、八百長と無関係だった広野でさえも平常心を保てるはずがない。

落合、清原、イチローらから寄贈されたバットの芯の音を聞き、打撃論を語る広野さん(写真提供/広野功)
落合、清原、イチローらから寄贈されたバットの芯の音を聞き、打撃論を語る広野さん(写真提供/広野功)

「打っても、三振してもスタンドからは『八百長じゃねえのか!?』とヤジられる始末。僕は酒を飲まないから、そういう八百長を持ちかけられるような盛り場に行かないんです。それは幸運だと思ったんですが、八百長八百長と言われたら、そら、野球への情熱は消えていくばっかりですよ。もうプレーするのが嫌になってたんですわ」

広野の心境は成績にも如実にあらわれ、1970年は9本塁打と低迷し、打率は2割を下回った。また、主力選手を欠き、方々から非難の的となった西鉄も当然ながらリーグ最下位となる。

「もう野球自体辞めようかとも思った。1970年のオフに、またトレードの話が出たんですわ。稲尾さんから呼ばれたわけです」

2度目のトレードに“安堵”

広野が平和台球場の監督室の扉を開けると稲尾は「おう来たか」と小さく声をかけた。

温厚な性格とにこやかな表情で知られ、その動物に似た風貌から“サイちゃん”と愛称がつけられた稲尾だが、シーズンの疲れと広野への通告の心苦しさで、このときばかりは神妙な顔つきに変わっていた。

中日時代の広野さん(写真提供/広野功)
中日時代の広野さん(写真提供/広野功)

「うちはピッチャーが永久追放になって勝てるやつがおらん。それで、お前巨人にトレードに行ってくれんか」
「え?中日じゃないんですか?」

広野がトレードになる際に、中日は「なにかあれば戻す」という約束をしていた。広野が驚くのも無理はない。

「いや、中日にも声をかけたが向こうは選手1人、巨人は3人を寄こすと言うんだ。川上(哲治)さんは代わりにパンチ力のあるお前を寄こせと言ってきた。すまんが、お前、うちを助けるために巨人へ行ってくれ」

中日ではないものの、広野は内心嬉しかった。