フジテレビの人気番組「料理の鉄人」の解説などで知られる、料理評論家の服部幸應さん(78)が、10月5日、急性⼼不全のため亡くなりました。
この記事の画像(15枚)「料理の鉄人」で共演していた、元フジテレビアナウンサーの福井謙二さんは、当時の思い出をこう話します。
「料理の鉄人」で実況を担当 福井謙二さん:
ずっと1時間もう1秒もたがわず、ノンストップで料理人が格闘するわけですよ。その間、私と服部さんがずっとアドリブで掛け合っているわけですよ。
一流料理人同士の真剣勝負を福井さんがぶっつけ本番で実況し、服部さんが軽妙な語り口で解説。2人の息のあったコンビネーションは、番組を大いに盛り立てました。
「料理の鉄人」で実況を担当 福井謙二さん:
「さぁ挑戦者が新しい行動を始めましたね、服部さんどういう方向に行きますかね?」って言ったら、服部さんが、「う~ん福井さんね、そろそろフォアグラが出てくるんじゃないかな」「いやフォアグラですか?そんな…おーっと出てきたフォアグラだ」という感じでね。そういう意味で、かけがえのない、漫才で言うところの“相方”だったというのが僕の印象です。
服部さん自身が“挑戦者”として、鉄人・道場六三郎さんと対決するなど、約6年間にわたって「料理の鉄人」に出演し、番組を支え続けました。
「料理の鉄人」で実況を担当 福井謙二さん:
印象に残っているのは、料理の鉄人が始まって2年か3年かたった時に、「小学生がなりたい職業ランキング」というアンケートがあって、「料理人」が1位になったんですよ。
それをずいぶん服部さんは喜んでいましたね。「福井さん1位になりましたよ。今、小学生は料理人になりたいんですよ、みんな。いや~僕もいい番組持っちゃったな」というようなことで、すごく喜んでいましたね。
いち早く“食育”提唱 日本の食文化へ貢献
終戦を迎えた1945年、東京で生まれた 服部さん。
料理に目覚めたのは、小学4年生の時に父親から「昼食を日曜日に作ってくれ」と言われたことでした。
大学卒業後は、父親が創立した服部栄養専門学校の講師を務め、1977年、31歳で校長に就任。料理人の育成に尽力する一方で、様々なテレビ番組でも親しまれてきました。
フリーアナウンサーの生島ヒロシさんは、1980年代、番組の旅企画で服部さんと共演。その人柄を偲び、当時の思い出を振り返りました。
40年来の親交がある 生島ヒロシさん:
僕がまだ局のアナウンサーだったころに「そこが知りたい」という番組が始まって、そこで路線バスの旅を。その時は服部先生、テレビ界では無名だったんですけど、しゃべりだすと長いんですよ。元々(料理)学校で60分とか90分授業とかやってらっしゃるから、最初のころは先輩だし、先生だから僕も黙って聞いていたんですけども、ディレクターの編集大変だと思って、ビニール傘の先の方で先生が長しゃべりになっちゃうと、僕が「ピッ」と太ももの後ろとかお尻を刺すんですよ。すると服部先生「ピッ」ってね、後10秒でしめるんですよ。“テレビサイズ”というのを学んだのが、路線バスの旅だったんですね。
日本でいち早く“食育”の必要性を提唱し、2005年、小泉純一郎内閣時代には、「食育基本法」の実現に尽力。
「和食」のユネスコ無形文化遺産登録にも力を注ぎ、実現に導いた立役者でもありました。
《2011年7月》
服部幸應さん(当時65歳)
「日本は発酵文化、そして生食文化、食べて健康的なものも多い。豆であるとか、健康的に組み合わせの中で、こんなすばらしい食ってないんですよね。」
料理界に貢献するため、精力的に活動し続けた服部さん。それは亡くなる直前でも変わりませんでした。
亡くなる5日前、かつて「料理の鉄人」で腕を競い、93歳になった道場六三郎さんのYouTubeチャンネルにゲスト出演。「冷めてもうまい天ぷらが大好き」と語っていました。
40年来の親交がある 生島ヒロシさん:
日本食を世界に広めて、世界中の人に“日本食のすばらしさ”を分かっていただくんだって燃えていて、知育・徳育・体育プラス食育だと。
どうしても簡単な食事で済ませる若い人たちが増えてきたので、そういうことに対する将来的な不安ということも、本当に真剣に考えてらっしゃって。
(「めざまし8」10月7日放送より)